理由もなく不安
休みの日、何も予定のない日に、「実は大切なことをやり忘れてるんじゃないか」という不安にかられることがあります。
前職、休みの日に気が休まったことはありませんでした。出勤すると上司からもう仕事しなくていいよとドヤされ、みんな黙って自分のパソコンカタカタやってんの。今この瞬間、地球に隕石ぶつかってほしいって思ってたずっと。いやミスしたの自分ですからね。バカバカ。って、周りに腹立つ気持ちと自分への情けない気持ちが高速サーキュレーションしてエンスト。
良くないことを考えてしまいます。でも今は、そんなことが起こったら、いつだって逃げ出そうって決めてるから怖くない。何が起こっても、絶対に失われないものがあるとわかったからね。
三連休は台風が激突し、暴風雨の中、幼なじみと飲みに行きました。嫁と上手くいってなさった幼なじみ。仲直りしてました。
暴風雨のなかを車で送迎してくれた嫁さん。旦那のいないタイミングで、この前は旦那に付き合ってくれてありがとうございました。ご心配かけて、すいまさんでした。付き合ってやってくださいねって。
いい嫁さんもろたやんけ。
常に新しさを感知
偉い人の独断で、。10月の第1週に大阪の支社に研修に行くことになってしまった。わたしバイトなんですけど、社員のひとと同じ研修うけるってダルいわい。
大阪の偉い人が、私のいる支社に文句をつけたいらしく、わしの支社で修行して学べ!ということらしい。
それ、「ほらやっぱりお前ら仕事でけへんやんけ頑張って俺の言うことちゃんと聞けボケ」という蹂躙シナリオ確定やろ。
最悪のシナリオへの想像力による心的耐性の強化。これが私に備わったunconscious protection skillです。
環境の変化を完治し、想定する。事が起こると、毅然とした態度。冷酷な眼差しで相手を見つめることができます。
大阪、うまいご飯たべたいなあ。
全然話変わるけど英語の勉強してんだってバイリンガルの友人に話したら、日本語だとハードル高い話題をいきなり英語で放り込んでくるので、そこからいきなり英会話が始まるの面白くて、とてもいい勉強になってる今日この頃。
聞いてほしいだけ
自分の中に飼い慣らせない感情を、どう発露するかで品格や優雅さがわかる気がする。
誰にだって理不尽は起こる。なぜ自分に起こるのか理屈で解決できないからこその理不尽。生きてるだけで損することがあるのです。それが人生と割り切れるほどわたしは人間としての人生を何度も経験してないともおう。前世はおそらくウミガメだよく泣くから。
誰かから聞いた話を自分の中に仕舞い込めないときがあったりする。誰かのゴシップ、誰かの幸せ話。、良くも悪くも衝撃を受けた時そのまま身体に馴染む時と、ある程度そとに逃がさないといけないときとがある。
仕舞い込めてたのに、急に出したくなる日もある。身体の中をショックがのたうち回ってたのだ。発露される時を待ってるそいつ。
ツイッターは何を言うかではなく、何を言わないかによって品格や優雅さがわかると誰かが言ってた。ツイッターでなくても、そうだとおもう。
不特定多数に向けてワンワンやってる(当の本人はそれが誰かに届くと信じきっていることが多いのだけど)と、結局誰にも受け止めてもらえない。誰か信頼できる個人に聞いてもらうのがいい。自分の人間らしさを維持するガス抜きメソッドもってますか。なるべく時間的・経済的コストの低いものがオススメです。
話、聞いてほしいだけなのって。意外にも聞き手にとってもストレスな場合もあるのでちゃんと話す前にエクスキューズしてからがいいですが笑
今ムリって言われることもありますけど、それはそれとして、言ってもらえることがある意味信頼の証でもあるとおもいます。
鬱あるあるそれは幼稚な論理化
後から考えればとてつもなく非論理的で、飛躍した「論理的っぽい何か」を抱きしめて、自分の包む強風(と自分が認識してるもの)をやり過ごそうとする構造。それが、鬱の形態の一つと思う。
鬱というのは、未来のない歩みだと思う。それは諦めの類型だとおもう。落とし所の見える無限。こういうもんでしょ感。だとおもう。
パッケージ化された循環論理の中で、はいこれもこのパターン(なので考えるのムダ)!そしてこれもこのパターン(なので考えるのムダ)!
を繰り返している。実は考えたいのに。
そうこうしてるうちに脳がBomb!して、どこが自分の思考思想の座標なのか分からなくなる。もともと座標があったかどうかは置いといて、わかってたつもりだったのに自分の認知を信じられなくなる状態になる。
この幼稚なパターン化。疲弊した私のキャパシティが設計できるギリギリの論理性によって、諦めと、諦めへの葛藤が醸成されていく。この葛藤が、時間とともに腐って内臓の内壁にこびりつく。
自分の幼稚さに。鐘を鳴らしてくれる人を大切に。
どっちに余裕があるのかな
甲と乙がいて、甲が乙に怒られて萎縮してしまい、甲は乙に相談できないまま課題を抱え続けているとき。結局強いのは乙ではなく、甲ではないかと思う。どっちが相手を思いやり、その場に居で立とうと努力を重ねているだろう。それだけのことなので、淡々と描くと残酷だけど、それ以上でもそれ以下でもないということだ。
郵便局の待ち時間ながくてウトウトしてたら、そんな文章が頭に浮かんで来た。思い浮かんだときは大発明をひらめいた気分になるのに、書いてみると陳腐で奇妙なものにしかならないの、一番残酷やね。
見ているもの、見られているもの
子どもの頃、こんなことを考えたことがある。
私が見ているこの世の中の景色やルールは全て、私が「そう見ている」だけで、他の人には違うように見えているのではないか。だとすれば、「見られているそれ」の本当の見え方は、誰にもわからないのではないか。
私が路面電車のこの座っているこの椅子には、ワイン色のシート敷かれているが、他の人には全く違う色・模様に見えているかもしれない。そもそも私は椅子に座っていないかもしれない。私は二本足の生物ではないかもしれない。
朝、私は「おはやう!」と声かけているけど、他の人には「mdpPdWa@20たozx」と聞こえているかもしれない。ある人の世界では、それに対して「mdpPdWa@20たozyy!!!!」と返すのが慣例になっているかもしれない。いやいや、そもそも音なんて、存在するんだろうか。音があると思ってるのは、私だけではないと言う疑いを晴らすことはできるのか。
私は、他者の存在をなぜ確信できるのだろうか。「他者の存在を確信している私」の存在は、確信できる。だろうか。
小4くらいの時に、こんなことをもっと簡単な言葉で考えていた。簡単な言葉で説明できる人の方が賢いって、誰かが言ってたなあ。
小さいときは誰にも言えなかったけど、最近ある人に話すと、全く同じようなことを考えていたと言うではないか。
見られているものは、見ている行為の土台があって初めて存在できる。見る行為のないところに、見られているものは存在しない。
では、御格子おろして、見えない月に想いを馳せる行為はどう説明されるの?
思考に文字入力が追いつかないので、ここらへんで。
二日連続の緊張感
地元に帰ってきて、師匠はすぐ声をかけてくれた。今に至るまで鬱のことは話してない。誘いを何度か断ったけど、またねと優しくしてくれた。
昨日今日は、師匠と現場。昨日の件は私から手を挙げた。今日の件は師匠から。本番です。
ちょっと前の自分は、約束を守れる自信がなくて断ってたと思う。ありがたいことに今日の話は、今の自分ならやれるかもと思える話だった。そう思える自分になったということでもあるのだと思う。案件の難易度というより、引き受ける余裕のはなし。
おし、やるぞい。