根が深い。

自己愛を手なずけたい人へ。

見ているもの、見られているもの

子どもの頃、こんなことを考えたことがある。

 

私が見ているこの世の中の景色やルールは全て、私が「そう見ている」だけで、他の人には違うように見えているのではないか。だとすれば、「見られているそれ」の本当の見え方は、誰にもわからないのではないか。

私が路面電車のこの座っているこの椅子には、ワイン色のシート敷かれているが、他の人には全く違う色・模様に見えているかもしれない。そもそも私は椅子に座っていないかもしれない。私は二本足の生物ではないかもしれない。

朝、私は「おはやう!」と声かけているけど、他の人には「mdpPdWa@20たozx」と聞こえているかもしれない。ある人の世界では、それに対して「mdpPdWa@20たozyy!!!!」と返すのが慣例になっているかもしれない。いやいや、そもそも音なんて、存在するんだろうか。音があると思ってるのは、私だけではないと言う疑いを晴らすことはできるのか。

私は、他者の存在をなぜ確信できるのだろうか。「他者の存在を確信している私」の存在は、確信できる。だろうか。

 

小4くらいの時に、こんなことをもっと簡単な言葉で考えていた。簡単な言葉で説明できる人の方が賢いって、誰かが言ってたなあ。

 

 

小さいときは誰にも言えなかったけど、最近ある人に話すと、全く同じようなことを考えていたと言うではないか。

見られているものは、見ている行為の土台があって初めて存在できる。見る行為のないところに、見られているものは存在しない。

 

では、御格子おろして、見えない月に想いを馳せる行為はどう説明されるの?

思考に文字入力が追いつかないので、ここらへんで。