根が深い。

自己愛を手なずけたい人へ。

どっちに余裕があるのかな

甲と乙がいて、甲が乙に怒られて萎縮してしまい、甲は乙に相談できないまま課題を抱え続けているとき。結局強いのは乙ではなく、甲ではないかと思う。どっちが相手を思いやり、その場に居で立とうと努力を重ねているだろう。それだけのことなので、淡々と描くと残酷だけど、それ以上でもそれ以下でもないということだ。

 

郵便局の待ち時間ながくてウトウトしてたら、そんな文章が頭に浮かんで来た。思い浮かんだときは大発明をひらめいた気分になるのに、書いてみると陳腐で奇妙なものにしかならないの、一番残酷やね。

見ているもの、見られているもの

子どもの頃、こんなことを考えたことがある。

 

私が見ているこの世の中の景色やルールは全て、私が「そう見ている」だけで、他の人には違うように見えているのではないか。だとすれば、「見られているそれ」の本当の見え方は、誰にもわからないのではないか。

私が路面電車のこの座っているこの椅子には、ワイン色のシート敷かれているが、他の人には全く違う色・模様に見えているかもしれない。そもそも私は椅子に座っていないかもしれない。私は二本足の生物ではないかもしれない。

朝、私は「おはやう!」と声かけているけど、他の人には「mdpPdWa@20たozx」と聞こえているかもしれない。ある人の世界では、それに対して「mdpPdWa@20たozyy!!!!」と返すのが慣例になっているかもしれない。いやいや、そもそも音なんて、存在するんだろうか。音があると思ってるのは、私だけではないと言う疑いを晴らすことはできるのか。

私は、他者の存在をなぜ確信できるのだろうか。「他者の存在を確信している私」の存在は、確信できる。だろうか。

 

小4くらいの時に、こんなことをもっと簡単な言葉で考えていた。簡単な言葉で説明できる人の方が賢いって、誰かが言ってたなあ。

 

 

小さいときは誰にも言えなかったけど、最近ある人に話すと、全く同じようなことを考えていたと言うではないか。

見られているものは、見ている行為の土台があって初めて存在できる。見る行為のないところに、見られているものは存在しない。

 

では、御格子おろして、見えない月に想いを馳せる行為はどう説明されるの?

思考に文字入力が追いつかないので、ここらへんで。

二日連続の緊張感

地元に帰ってきて、師匠はすぐ声をかけてくれた。今に至るまで鬱のことは話してない。誘いを何度か断ったけど、またねと優しくしてくれた。

 

昨日今日は、師匠と現場。昨日の件は私から手を挙げた。今日の件は師匠から。本番です。

 

ちょっと前の自分は、約束を守れる自信がなくて断ってたと思う。ありがたいことに今日の話は、今の自分ならやれるかもと思える話だった。そう思える自分になったということでもあるのだと思う。案件の難易度というより、引き受ける余裕のはなし。

 

おし、やるぞい。

暇ではないのだ

人を諦めたくないというのが基本方針で、良い方へ良い方へ、解釈する。信じやすいのかもしれない。

ひどいことを言われても、「ペットが死んだのかな」「ひどい言い方しないと聞いてもらえないと思ってるのかな」「周りからそういう言われ方しか、されたことがないのかな」「体調悪いのかな。つうか生理かな。」って。

 

最近は「そんな深いこと考えてねえよ」って思えるまでのスピード、まあまあ上がってきたよ。

人生は有限なのだ。興味のない人に心を割いていられるほど暇ではないのだ。

とんととーん

来週末、急遽本番が決まった。楽譜が送られて来た。別にありがたくはないけど、生活に少し変化球が飛んで来るの嫌いじゃない。失敗しても大怪我じゃないし。楽しんでいこう。

 

とんととーん。

Apple Watch

Apple Watchなんて作れなくてもいい。ジョブズになんてなれなくても、いい。今日を一生懸命生きられるなら。

 

Apple Watchを身につけて、優先座席にカバン置いて席を譲らないサラリーマン。目の前にいる。

 

Apple Watchの背負った世界観の重さを知る。身につけた者の軽さを世界に思い知らせる。

 

世界観ってすごいな。

危なかった

いつもブログの記事をバックナンバー一覧としてツイッターの鍵アカウントでツイートしてるんだけど、間違えて普段つかいのほうでツイートしてしまった。急いで消したけど。ふいー。

 

もしこのブログがオープンリーになりそうになったら、全て閲覧不可にして、どこかへ引っ越そうと最初に決めていました。

最初から自分の独り言をグルグル吐き出す場所だったので。

 

急に記事が全て消えたら、そのときはまたどこかでお会いしましょう。