根が深い。

自己愛を手なずけたい人へ。

「後悔しない人生を歩みたい」について

「死ぬ直前に、もっとチャレンジすればよかったと後悔する人が多い」という話を見たことがある。「なので、チャレンジして生きましょう」という主張だった気がする。

 

「今の人生」に対する納得感と、「今までの人生」に対する納得感の混同が怖いなって話だと思っていて。自分の根っこを知るために「今までの人生」を観察することは大事なのだけど、それと「今の人生」への納得感を混同することは健全ではないなって思う。無関係ではないが、同一でもない。

そして、「将来」に対して、どうあることが健全か。考えてみたい。

 

今と過去

途中、色々な挫折があったとしても、「今この人生、納得感あるわぁ」と本当に腹の底から自分で思えたら・・・ちょっとツマんねぇヤツと思うけど、でも、どこか羨ましいとも思う気持ちもある。

「いろいろあったけど、今の自分に納得」みたいな感覚。プロセスの美しさではなく、今このときへの納得感。人生への評価軸が、Reasonabiity(合理性)からAppropriability(専有可能性)になる感じかな。

 

先日、ハローワークの心理相談でも、「前向きな諦めみたいなものが、いつか来るんですかねぇ」と話したのを思い出した。担当の方は、「いつか、来るんじゃないですかね」と朗らかで優しい笑顔を向けてくれた。その一言が欲しかったのかもしれない。

 

未来 

じゃあ過去・現在の目線だけでなく、未来に目を向けてみたらどうなるか。

「まだ達成してないけど、~をやったら後悔しない」と断言できること。湧き出るものがある人が、実際どれだけいるのだろうと思う。それを持てることは素晴らしいけど、同時に、「持てないこと」も全く異常ではない。

 

私のばあい  

わたしが東京で潰れそうになっていた頃は、自分がどうありたいかが分からなくなり、「迷惑をかけてはいけない」、「沢山の人が応援してくれていたのに」という想いが強くなっていた。結局、仕事に対して、自分の内側から強いものが湧き出なくなっていて、気がつくと鬱になっていた。

1日12時間くらい働いていたから、やはり生活の半分の時間、湧き出ない時間を過ごすと、他の物事にも湧き出なくなるのかね。無力感が、私の全体を支配していたことが今はわかります。

 

実家に帰ってきてからは、安堵感もあったけど、「何も見いだせてない焦り」だとか、「人生を無駄に浪費している感覚」が募って、「今のままだと後悔してしまうかもしれない」と思う日々だった。不健全だとは、わかっていた。

 

今は、ある程度の他者貢献性を自分の中に見出しています。このブログもそう。

そして未来に対して、まだ何も湧き出てこないのは焦っても仕方ないのだから、異常と思わず、「まぁいっか」と。そうして生きている。

調子がいい時は、「今こうあること」に感謝してみたり、「自分がどうありたいか」を描いてみたりする。それらの「今」や「未来」を見つめる行為は、「今までの人生」に対する納得感と全く無関係だときづく。

何が悪いのかを考えず、良い未来を考えると。

今日は、いろいろなことをやった。ずがががー!っと。あまり集中が続かないのだけど、山を越えた。

 

なにをやってたかというと、趣味でやってる音楽活動のこと。4月と5月にコンサートがあって、それの雑務。

 

東京で働いてた時、仕事を辞める前からコンサートのプロジェクトは始まっていて、私は主催運営の中心役割を担っておりました。

 

仕事をやめるときに、これも一線を退こうかと考えたのだけど、やれる範囲でやってみようと、ズルズルと、しかし意志を持って突き進んできた。今思えば、かなりリスクのある決断だったね。

 

やはり、あまりウマの合わない人もいるわけですが(笑)、私が責任者ですから。やはり大きな器として振る舞わないといけない。

そんな、べき論に悩まされるんじゃないかと心配したのだけど、ある出来事で少し揉めた時に、自然とチカラが抜けたというか。

 

いつもの思考回路と違う方の流れに、たどり着いた。川を流れる葉っぱが、いつもと違う方の流れに吸い込まれていくみたいに、痛みなくスーッと。

 

ある時、あまり自分が悪いと思ってなくても「すいません」という言葉が出てきた。すいませんって言ったら、対話が次へ進むような気がしてくるんだね(笑)

あのとき私が使った「すいません」は、謝ってるんじゃなくて、「落ち着いてください。落ち着いて、あなたの話を聞かせてほしいです」って意思表示をしたかったのかな。言葉って話者同士の関係性によって色を変えますね。ほんと、ナマモノですねえ。

 

だから今になって思うのは、誰が悪いか、自分か相手か、とかどうでも良くなってたのかな。私が願っていた近い未来っていうのは、相手を圧倒してる自分じゃなくて、相手と協調してる自分だったんだね。

コンサートの成功だけじゃなくて、チームとしてのサステナビリティを強く願っている自分がいたんだね。

 

もちろん、ダメなときもあるけどね。コーピングの本、最近読んだから今度まとめたい。

 

おし、再び作業に取り掛かりましょう。

どえらい眠い

どえらい、というのは地元の方言でvery muchという意味です。なんでか分からんけど、今日はどえらい眠い。昨日1時に寝て、今日7時に起きたからやな。

 

今朝もウオーキングしたかったんやけど、なんか雨降りそうな天気でヤメにして、ポケーッとしてた。

 

 用事があって家から5キロくらい行ったところにある桜並木を車で横切ったのだけど、満開なのに誰もいない!200メートルくらいあるのに誰も花見をしてない!もったいなーい。

 

そんなこんなで家で昼ごはん食べて、さっきまで寝てました。ふいー。フラフラするので、これは副交感神経優位ってやつかしら。

 

最近、頭痛やだるさの波が、気圧の急な低下とリンクしてるんじゃないか?と感じ始め、「頭痛ーる」というアプリを入れました。

 

pocke, Inc「頭痛ーる:気圧予報で体調管理 - 気象病・天気痛対策アプリ」

https://appsto.re/jp/QRo8J.i

 

自分の謎を読み解いていくのは、楽しいですね。ダルかったハズなのに、楽しい。そうそう。こういう風にツルツルと、いつの間にか前向きになってく感じ、自分の良いとこよねー。って思います。

土曜の朝は

家に作業療法士の方がきて、父のリハビリをしてくれる。だから9:30には部屋を片付けないといけない。

 

積んだ本や服を、せっせと仕舞う。

 

毎週人が家に来ると、強制的に部屋が片付く。

 

すごい。

 

おかげで土日は清々しく過ごせる。

 

土曜の朝に、人を家にあげられるのって、本当にすごいと思う。

映画『ムーンライト』を見た感想

ララランドと間違えられた(笑)、ムーンライトを見てきた。信頼する友人に勧められたのだ。そそのかされるのは、昔から嫌いじゃないのよ。

 

特にネタバレをするつもりはないのだけど、他人がどういう感想を持ったかが、見る人と作品との関係に影響を与えることがあると思う。先入観。

 

だから、他人に映画や本を勧めるときは「見てほしい」「好きだと思う」「いいよ」くらいしか言わないようにしてる。理由を突きつけられると、勧められた理由/勧めた人が期待している(と勘ぐってること)との対峙になってしまうから。

 

 

それはそうと、作品の感想だけど、とても形容しがたい。言い換えると、「彼"に"何か言いたいけど言えない」のだ。

 

主人公になんて声をかけてあげたかっただろう。彼と共有できる言語を探している。それを望んだ作品かどうかはわからない。彼"を"他人と共有する言葉を持ちたいとは思わない。そうはさせてくれない。

見た直後は、そう感じる作品だった。

 

見てから数時間が経ったところで、もう少し踏み込んだ感想が出てきた。以下、大いにネタバレを含む。

 

私は「何かのスピンオフみたいだな」と感じる映画が好きなのかもしれない。例えば、この映画の登場人物はみんな『ER緊急救命室』という海外ドラマに出てきそうなのだ。ヤク中の母も、その子供も、ドレッドの不良も、金歯のギャングも全員ERでてきそう。

 

ERは、医師たちを主人公に置き、命の現場にあってスピーディかつパワフルで多様に、人々の人生が展開されていく。(そういえばERで、老人ゲイのカップルの片方が末期ガンになり、その最期を見届けようとするときに突然家族が現れて、引き裂かれるっていう回があったのを思い出した)

『ムーンライト』は、そんな物語の1つにフォーカスして、緩やかに展開を見つめているような作品だった。そのメインストリームじゃない感が、ちょっと好きだ。

 

つまりその、作品には固有の「流れる速度」があって、時間の速度と、人の心が変化する速度。

その速度に寄り添いたい感覚の強さが、「見てよかったかどうか」を決めているんじゃないかと思う。

自己対話のすすめ

バカバカしいと思っていた。

 

鏡に向かって前向きな言葉をかける

 

椅子をかつての職場の苦手だった人と、自分の位置関係に配置して、それぞれの立場を演じてみる

 

やろうと思った瞬間に、どこか恥ずかしい感じになってしまう。

 

ある種の想像からくる創作なのである。しかし、それを通じて効果が得られるのもわかっている。

でもどこか、白々しい。

 

 

ふと、私の場合は文章で書くのがいいのかもしれない。小説を書くみたいに。

 

このブログを始める前も、そのときの怒りや悲しみを投影した小説を書いてみようかと考えていたことがあった。

ブログを始めて約1ヶ月。書いている間はフロー状態。ほぼノンストップで30分くらいで書き上げている。

他人の目を気にせず、思考が唸っているのが気持ちいい。

 

また時間を見つけて、自己対話型の何かをちょっと書いてみようと思う。

使い込まれたボウルの話。

実家に帰ってきてから、毎晩、家族に夕食を作っている。母親は仕事で帰りが遅いので、帰る時間に合わせて19時から料理を始める。

 

ある日、母がすごく早く帰ってきた。疲れたので早退したらしい。明日の朝、早く行くらしいけど。

 

早く帰ってきたものの手持ち無沙汰なようで、台所まで来て、後ろから「何かやることある?」と聞いてくれる。

こうしろ、ああやれと指示を出さない。嫁入りしたときは料理が苦手なのがコンプレックスだったと、聞いたことがある。私はコンプレックスではないけど。そういうわけで気を遣ってくれている。母は、人の自尊心に敏感な人なのかもしれない。

 

サラダを作ろうとしていると、「そういうときはこのボウルがいいよ」と、年季の入った金属のボウルが棚の奥から出て来た。

色は金色?で、表面は使い込まれたからか、なめされたように滑らかだった。

 

「これ義母さんが亡くなった時に、もらってきてん。お葬式の後、なんでも好きなもの持って行ってええで言われたから、これだけもろてん。」

 

父方の祖母は、随分前に亡くなった。元気で、テレビのみのもんたに悪態を吐く、典型的なガミガミばあちゃんだった。

 

「なんで、このボウル好きなん?」

 

かつて母は、父の実家に行くのがしんどいと言ったことがあった。我ながら、イヤなこと質問するやつだと思った。

 

「んー?おばあちゃんと料理したことを、思い出すからよ」

 

そのあとも母は、同じ素材で作られたオタマが、使い古された結果、円盤の左側だけ削れて楕円になっていたという話をしてくれた。

 

 

母は、祖母のことがキライなんだと思っていた。

祖母は年をとるにつれて、お小遣いを渡すようになったり、伏し目がちになって目を見て話してくれなくなったり、段々と上手に真っ直ぐにコミュニケーションが取れなくなって行ったように感じていた。

料理を通じて、祖母は祖母らしく生きていたのね。なんかごめんね、って思った。

 

母は昔から近所付き合いや、親戚付き合いが苦手な人だった。親戚の寄り合いでも、ずっと台所で苦手な料理を手伝ったり、料理が終わっても宴席には来ず、台所で缶ビールを飲みながら普段は見ないのど自慢を、おばあちゃんと見ていたこともあった。

料理好きのおばあちゃんは、不器用な母の居場所だったのかもしれない。

 

使い込まれたボウルは、なかなかに使い勝手が良かった。