何もしないをやってみる
読んだ。理由なき幸福感に出会いましょうというのが、この本の命題。
今の自分ではない何者かになろうとし続けることは、永遠に満足できないことの裏返しなので止めて、何もない状態に幸福を感じることができれば最強。
という論理の展開だったと思う。
あまり全体的にはピンと来なかったけど(笑)、まずは「何もないをやりましょう」というのが意外とできてないんだという発見。
予定がなくて何かをやる気力もないとき。テレビを見たり、スマホをいじいじしたり、寝たりしてることが多いのですけど、この本ではそれを「退屈しのぎ、つまらないという事象から逃避している」と言ってた。(この辺あたりから「うるせー。好きにさせろ」と感じ始め、この後から「つまらないを受け止めない」という展開になって置いてけぼり感がすごくて飛ばし読み)
この本でいうところの何もやってないというのは
・とにかくボーッとする。何かを主体的に考えず、頭に浮かんだこともあんまり深く考えない
・自然のなかで草花や空や生き物に目を向ける
・お風呂に浸かって、ボーッとする
・瞑想する
みたいなこと言うらしく、確かに「今日は何もしてなかったなー」と思う日も、一日中テレビを見てたりしている。こういう時間を1日15分くらい持つだけで、脳がリラックスするらしい。
本の表題にある「つまらない」に対しては、つまらないと思ってることに楽しみを見出すアプローチと、隣の庭が青く見えて今の自分が不満足だと感じる思考を止めるアプローチがあって、どちらも「はい、そうですね」って思った。
「無いものに執着せず、あるものに気づきなさい」とのことらしいが、とはいえ多くの企業が、成長と発展を掲げるわけで、そんなとき私はどうあればいいの?ってことにヒントが欲しかったんだな。私は。
ここまで書いて読み返すと、そうとう上から目線になってるけど、まあいいや。
生きていくための具体的なヒントが欲しいと思ってるってことは、そこに向かって主体的に動き出している証なので、いい傾向だと思う。
少し前までは、そんな具体的なヒントを知ってしまうと、また働かないといけない。嫌だ。と無意識に思ってて避けてたもんな。
私の中の何かが、指向性を持っている。さて、どうなることやら。
ネガティブな感情との付き合い方
過去にも同じようなタイトルをつけたような気がする。
昔からネガティブな感情が苦手で、認めがたいものだった。大学を出るまでは、あまり周りに私の価値観に反するネガティブパーソンと接することがなかったのだろう。
中学一年の春、母親に「あんたが人の悪口を言うなんて、珍しいわ」と言われたことを覚えている。自覚はなかったけど、少し誇らしかった。人を憎まず生きたいと、願った。
働き始めて、はじめて多くの、(当時の)自分の価値観に反する、(当時の自分にとって)ネガティブな人と共存することを強いられた。
私は、そういう人を心の中で哀れむようになっていった。それは私の中の慈しみ(だと当時は自覚していたもの)を発動させ、本当は怒りと悲しみでヒリヒリしているが無かったことにされている低温火傷の心に平穏を到来させるための、私に後天的に備わった思考回路だった。その哀れみには、幾らかの蔑みが含まれていたけれど、それは無いことにされていた。善人でありたかったのだと思う。
私は、ネガティブな感情とうまく折り合いをつけられた経験があまり無かったのだ。
この数ヶ月でそれがわかって、それと向き合う作法(作法と言っても、時間をかけて味わい眺めるだけなんだけど)をいくつか知った。今は、少し試してみたい気持ちが出てきた。
自分ではない誰かになりたいのではなく、私の中の新しいものに気づきたいのです。
恥じらいや不甲斐なさを伴って、自分が自分の怒りに晒される瞬間に、私はどう在るかを、試してみたい。あーつらいんだろうなー…(苦笑)
旅は恥のかき捨てらしい。やはり旅に出るか。
演じることの有効性
図書館で読んだ本から雑感。
療養してすぐの頃、演劇かもしくは、身体表現みたいなものがやりたいなーと思っていて、それはおそらく今の自分ではない自分になりたいと言うような願望も一部あったのかもしれない。
昔、平田オリザさんの演劇ワークショップに聴講生として参加したことがあり、ふと図書館で平田さんの本を手に取った。
演劇ワークショップとは言っても、演劇をつうじたコミニケーションの話。「演劇を通じてコミニケーション能力を養うための指導法を教える」と。平田さん曰く「メタ・ワークショップ」と言うものであった。
例えば最初のワークとして、目に見えないボールを二人一組でキャッチボールする。投げ方のバリエーションを工夫したり、受け取り方や、投げるとき受け取るときに効果音を付けてみる。エネルギーが動く。
この本の内容も非常にそれの事例紹介に近いもの。面白い。(なるほど、私はエネルギーが動くのを感じるのが好きなんだな)
ストレス耐性を養う試みの1つとして、鏡に向かって自分の肯定する言葉を投げかけたり、断るのが苦手な人が断り文句を口に出す練習をするというのがある。自分の体を通じて表現されたものは、再現しやすい。
私のように思考が先行する人間にとっては、行動が先行し思考を作っていくと言う営み自体が非常に面白く感じる。
ここ数日、家から出ずヒゲもボーボーなので(それはそれで、そんな自分にウンザリすることもあるのだけど、天才子役と言われたのに今や落ち目に差し掛かった年齢そこそこの下積み俳優の人生を演じていることにしてみたら、面白い気がしてきた)、今日は時間にとらわれずに過ごすビジネスマンにでもなった気持ちで過ごしてみようかなと思う。
とりあえずヒゲを剃る。
肩こり、コリコリ。
半月くらい、朝のランニングをサボってます。夜遅くまで読書してるからなー。
朝は8:30に親に起こされます。ふふふ。
先週から肩こりが酷く、ストレッチすると一時的には良くなるのだけど、治らない。肩こりで頭痛がひどい。寒いと特に、ですね。
ランニングやってたときは、肩こりあまり無かった気がするので再開しようと思います。まあまずは、早起きして着替えて、散歩って感じですね。
そういえば海外の人には、肩こりって概念がないらしいですね。言語化することで人は考え、正面から悩んだり、それを避けたりすることができるのかもしれない。なんとも言えない感覚にも、「それ」と名前をつけよう。
書くこと
私にとって、何かを文字にする行動や試みは、それとの適切な距離を保つための手段だとわかった。
昔からそうだったと、今気づいた。誰にも分かられなくても、自分の書きおこした思考の過程が何ものにも代えがたい宝物だった。
結果思うように書くことができなくても、それが私と対峙する時間が価値を持っているように感じていた。
これからも、それを大切にしたい。
大切な人の一言に傷ついた記憶
もちろん本人には簡単には言えないのだけど、大切な人からの良かれと思っての言動に傷ついたことがある。
大切なあの人の言動に傷ついてはいけない、と強く思っていた。
しかし、度々思い出された。大切な人だからだ。
逆に、相手は自分の言動に簡単には傷つかないと思いたい気持ちもあるのだと思う。そう願うのも自然なことだ。現実は、その願望がエゴだとしても。
でも実際は、「どんなに大切な人の言葉であっても傷ついたりするよね」って、気がつくと受け止められるようになっていた。「いいじゃんそれで。それでもあいつのこと、嫌いじゃないよ。」って。
それに気がついて、楽になった。
そんだけ。