根が深い。

自己愛を手なずけたい人へ。

つらい記憶と対峙する、脳内小旅行

気がつくとカウンセリングや心理に関する本を、もう20冊くらい読んでいた!遅読マンだったのに、斜め読みが得意になった。少し嬉しい。「まだ出会ってないにもかかわらず、"こういう内容を読みたい"というイメージがクリアな状態」という不思議な、矛盾した部分があって、それに辿り着くまでひたすらページをめくりまくっている感じ。小説はこうもいかないのだろう。

 

ここ数日、気分が乗った時だけ、辛かった時のことを思い出して1つずつ整理している。

 

憎しみを伴って投げ掛けられた強い言葉の記憶もあれば、良かれと思って掛けてくれた言葉に傷ついたこともある。

言葉もあれば、視線や表情、匂いや音もある。1年以内のものから、子どもの頃のもある。

 

3秒くらいで息切れて終わる時もあれば、1時間くらいボーッとそのシーンを見つめていることもある。

 

そのときの自分の心のフィルターを、観察・分析・点検しにいってくる旅。1つずつ惑星を旅するような、タイムマシンに乗ったみたいな、不思議な感じ。

 

こういう心の小旅行が、嫌な記憶で途中やめにならないようにしたり、最悪の結末イメージのまま終わらないようにする、思考の腕力や粘り気みたいなものが、少しずつ付いてきている気がする。

 

ストレッサーの無い世界に行きたいとは思わない。ストレスと痛みを感じない人間になりたいとも思わない。

たぶん、他人の痛みに歩み寄れる人間でありたいという根っこがあるのだと思う。

頭の中で、再会した。

たったいま、急にだった。眠くはない。目も開けている。少し遅いお昼ご飯を食べ終えたところだった。いきなりこんな映像が頭に飛び込んできた。

 

百貨店のどこかのフロア。少し古い、新宿駅の京浜百貨店?天井が低くて、ちょっと人が多い。

 

エスカレーターで上がって、どこかのフロアに着いた。進んでいこうとすると、向こうから人が来る。

 

東京で働いていた時の会社の社長だ。

 

この人とこじれて、私は会社を辞めた。他にも色々重なって、うつになった。最後まで分かり合えなかった。

 

私は大きく息を吐き、背筋を伸ばした。

 

相手はこちらに気づいているだろうか、無視するだろうか。この間、2秒。まだ目が合わない。しかし、まっすぐこちらに向かって来る。

 

敢えて脇によけず、少し深く会釈をした。

もうわからない。なぜか、私は声に出した。

 

「お久しぶりです」

 

相手は気づいた。

 

「おー!ひさしぶり!元気!?」

 

笑っている。そう、この人は無邪気で明るい。そして別のシーンでは、憑物がついたようにキレる。

 

「いえ、いま無職で。その節はご迷惑おかけしてすいませんでした」

 

あまり申し訳ないとは思ってないけど、この場を終えるために、それ以外に言うことはなかった。なぜ声をかけたのか。恐らく、対等に会話したかったのだ。なぜ、「いえ」と否定したかったのかも、言葉を発して0.1秒後には、そんな自分を分かってあげられる。

 

「そうか!じゃ、頑張ってね」

 

どこまでいっても寂しい人だった。でもこれで別れを告げられたような気がした。

 

良い再会だった。

 

脳が汗をかいたのか、とても眠い。ちょっと寝よう。

みなぎっていたときの記憶

大学時代、サークルの代表をやっていた。チームプレイが大切な活動をやっており、その責任者をやっていた。

 

周りは私を信頼して、右!と言ったら右を見てくれた。最初は半信半疑だった人も、ひとまず従ってみるかと分かり合いながら進めていった。

 

次第に、無根拠の確信が掴める瞬間を大事にするようにしていた。確信のない、惰性的な時間の流れに敏感になるようになった。今をしっかり感じていた。

1つの発言にも無言にも、1つの挙動にも不動にも、深い意志や強い肯定感がみなぎっていた。

 

自分の内なる声が囁いていたら耳を傾けていた。囁いているけど、何を言ったいるかわからないときも、焦らず囁いている事実を尊重した。

なるほど。私の根っこはここにあったのか。

周りがみんな敵に見えるとき。

うつになる直前、周りの人をすごく低く見ていた。今でも、そんな自分が出てくるときがあります。

それは「自分が正しくありたい」かつ「正しい自分を認めさせたい」という気持ちの表れでした。

 人の良いところを見つけるより悪いところを見つけたり、憐れむべきところを見つけたりして、自分を安定させていました。

自分の周りに、愚かな人が集まってきているような感覚もありました。

みんなが愚かに見え、活躍している人や元気な人、文句を言ってる人がみんな自分の敵であるかのように感じていました。

カフェや薬局で、奥の方から笑い声が聞こえると自分が笑われているのではないかと気になるようになりました。

自分の大切な人を見ても、最後は自分しか信じられないのだからと考えて極端に冷ややかになったと思ったら、次の日にはその人無しでは生きられないような強烈な依存に縛り上げられ。そんな愚かな自分が大嫌いでした。

仕事を辞めて実家に帰ってきても、親や近隣住民、ハローワークの窓口の人、病院の医師、久しぶりに会った友人、恩師。誰が自分を傷つけるのか、怖い気持ちでその人たちの目の動きをジッと見ていました。少しニコッとされただけで、嘲笑われているように感じたこともありました。

懇意にしている人との再会も、とても緊張して上手く話せなかったときに、自分の弱さを噛み締めて、無力を感じたこともありました。

親を怒鳴ったこともありました。理由もわからないまま、1日泣いていた日もありました。

 

こうやって書いていくと、何故だかスーッと楽になります。

書かないと、書かないと。と止まらなくなって来た日は、良い日だと感じています。

井戸に向かってバカヤロウと叫ぶような感じで。そんな日は、撒き散らして行きます。

 

自分も他人も傷つけないために。

絶対折れない心の根っこを作ろうとする脆さ

先日、ある本で「エンプティチェア」という自分の心と対話するワークを知った。トラウマティックなシーンを緩やかに再現して、自分の中にある自分と対話したり、苦手なあの人の立場になってみたり。それを、いかに上手く演じるのではなく、スーッとダイブしていくか、という難しさがあるのだけど、自分がやってみたいことに近かった。

 

調べていくと、アドラーゲシュタルト、TA( Transaction Analysis,交流分析)という単語がよく登場する。あまりよくわからんけど。

 

そんな風にネットをサーフしていると、気持ちがすっとなる動画に出会った。コーチング指導セミナーをやっている方の動画。すごくすっとした。今日はもう、これだけでいいような気がする。

 

人生ではなく『海外旅行』と思うと【宮越大樹コーチング動画】 - YouTube

違う星から80年くらい地球に旅行に来たんだと。

 

そういえば元気だった頃、悩んだときは「長い宇宙の歴史で考えれば、チリみたいなもんだ」とか冗談で思ってたことがあったけど、それよりは健全そうなイメージだなあ(笑)

 

こういう、心が一時的にフワッと楽になるものを持っていること自体を、私は最近まで軽んじていた。

 

強靭な根っこがないから、気休めしてるだけだと思っていた。こういう気休めは耐久性が低いから、すぐに飽きがくる。だから無駄だと。

 

しかし、最近ある本と出会って考え方が変わってきた。全然無駄ではない、というかむしろ、"「強靭な根っこ」に対する神話性・潔癖性・"のほうが脆いんじゃないかと感じ始めた。

 

また、こんど頭の中で整理してみよう。

 

掴めない気持ちを無視せず慌てず見つめる練習

仕事に行かなくなって最初の1ヶ月、通っていたクリニックの話。そのクリニックでカウンセリングしてもらったとき、ドクターは私に言った。

 

「あなたは自分の気持ちを、かなり明確に言語化することができる。なので、自分の感情に気づいた上で、その感情を瞬時に「無駄なものだ」と処理する癖がついてるんですね。あなたの中には5歳児のあなたがいて、辛いときや悲しいときは泣いたり怒ったりしてます。その声を抑えつけているのです。短期的にはそれでストレスの回避になったとしても、積み重なったものは深い可能性があります。まず、自分の気持ちに気づいて、それをどう処理するのか、その思考の習慣を筋トレのように養うことが有効でしょう」

 

迷いのない口調で簡潔に、優しく教えてくれた。雷に打たれたような気分だった。そして、ドクターは限られた時間で、私にあるワークを施してくれた。

 

ざっくり書くと、

❶傷ついたシーンを思い出す❷身体に何かを異変を感じているか確かめる❸5歳児の自分が感じた気持ちを、思いつくだけ言う❹その中から1つ選ぶ❺5歳児の自分に心の中で優しい声をかけてあげる❻身近にあるクッションを抱きしめる❼最後にまた会いに来てね、いつでもいいんだよと声をかけてあげる

 ※文章だと伝わりにくいと思うし、私もドクターに導かれて辿り着いたので、これをそのままやれば良いというものではないと思うのだけど。

 

私はこのワークで滝のように涙が出てきて、フッと楽になった。こんな風に自分を整理できる思考の整理を、なるべく1人で。時にはパートナーと。やれる方法を探したいと、無意識に思うようになった。

これが、この数ヶ月間、本屋や映画を今までにない勢いで見漁っていた、無意識の根源的な動機だったのだ (と、今日気づいた)

 

そして昨日、図書館で借りたある本。あの日、クリニックで何が起こっていたのかを分かりやすくシンプルに教えてくれる本に出会いました。感動。感動やで。

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フォーカシング。自分の気持ちを「あー、私は○○を感じているなあ」という事実に着目するだけ。中身を焦って解決しようとせず、その○○が語りかけてくれるまで、焦らずその気持ちを眺めて、育てるような内的取り組み。フォーカシングで何かを見出さないといけないという強迫的な観念は棄却して、自分の思考の緩さを許容することで、緩やかにかつ確実に○○との適切な距離感を見つけていく取り組み。

2005年に出版された本なので、今はもっと新しくなってるのかな。もうちょい探してみようかな。

 

なんか自分のことが見えてきた感があるなあ。

父と風呂に入った

父は要介護で、平日はデイで風呂に入っている。土日は、日曜の夜だけ家の風呂に入る。リフォームした手すり付きの風呂に入る。

今までは母がずっとやってたのだ。小さい体ですごいと思う。私が実家に帰ってきてからは、基本的にずっと私がやってる。

 

父は威厳ある人だった。どこか偉そうで横柄なところもある人だった。今も、例えば自宅の電話に掛かってくる勧誘の相手に向かってトンデモナイ態度をとるので、下品だと厳しく指摘するようにしている。プンプン。

父は小さい頃からずっと音楽をやっていて、趣味がこうじてプロのバックバンドもたまにやっていた。病気をして要介護になってすぐの時は、母いわく、しばらく音楽を聴くのを嫌がっていたらしいが、ある日の夕方、父は大好きな久保田利伸を聞きながら、動く左腕と左脚でリズムを叩いていることがあった。そのタイトなリズムは、まさしく父が得意としていた16ビートの裏裏を感じる、父の好きなリズムパターンだった。

その話をすると、母は驚いて少し泣いていた。二人が出会ったきっかけも音楽だったもんね。

 

父は、私に頼みごとをするとき、少し申し訳なさそうにする。自分一人では生活に不自由があることを少しずつ受け入れている父の葛藤を、私は感じ取っていた。

日々の介護の中で最もそれを感じるのは風呂だった。一緒に浴室に入り、背中を洗ったり、動かない右足を浴槽に入るようアシストする。

何も考えずに、私はパンツ一丁でずっと携わっていたのだけど、今日は湯船が気持ちよくて全裸になり、要するに一緒に風呂に入った。浴槽は二人も入れる広さは無いので代わりばんこ。

家の風呂に一緒に入るのは、恐らく22年ぶりであろう。気のせいか、父の表情がいつもより柔らかい気がした。

 

なんでもっと早く気づかなかったんだろう。やはり、裸の付き合いは大事だ。ポカポカ。