やる気神話。
前々から考えていたことなのだけど、改めて文章して整理したかったこと。「やるき、モチベーション」の話。今朝、茂木健一郎さんがそれについてブログを更新していたので、私も自身の思考に絡めて、丁寧に書いてみる。
モチベーションと心の病
「やる気にあふれ続け、日々発見があり、モチベーションが高く保たれている状態」というのは、一部の超人・変人にしか起こらないと思う。そうだと分かっていても、今日はやる気が出ないなぁという自分が不甲斐なくなったりする。やる気幻想、キラキラ神話、みたいなものがあるのだ。特に、心の病気をしていると、そんな自分が情けなくなったりする。「やりたい、と口先では言うけど、本当は好きでも何でもないのでは・・・」と考え始めてしまうと、もうまずい。焦るのが一番良くないことだと分かっていて、余計に負のスパイラルに入っていく。
なぜ、やる気が上下するのか
やる気は、数字で計測できない。過去もっともやる気に満ちていた自分を知っているから、そこと比べたり、理想・あこがれる他者との比較でしか、自分のやる気を感じることはできない。とはいえ、所詮は「感じる」であり、「計る」ではない。そもそも、そんなものを正確に把握することはできないのではないか。
過去や他者との比較にフォーカスしている自分がいるだけで、そこに建設的な自己評価が存在しないならば、視点を変えるが合理的だと思う。
思い切って「やる気」という言葉を使わずに次へ進んでみたい。
そもそもなぜ辛いのか、何が辛いのか
思考の発散を、なるべくちゃんと整理していく。
- やる気が無いのがまずいのではなく、「やろうと思っていたことが出来ていない」ということに困っているのだ。
- いや、そもそも「やろうと思っていたことが出来ていない」と、本当に困るのかな?ほんとうに?
- 「好きだと思ってやっていたこと」にも身が入らないとき、「好きだった物事のことを好きでなくなる」のは本当に辛いことなのか?好きだったという過去に縛られていないか。
やる気と問答を繰り返していると、収集がつかなくなってきた。それは何故かというと、「やりたいことが、やれてない」という客観的事実を突き詰めていくうちに、徐々に「動けない自分、困っている自分、苦しんでいる自分」に思考の対象がフォーカスしているからだとわかった。ここまで来てしまったら、開き直るしかない。焦らず騒がず。まあいいや、と声にでも出してみるといいのかもしれない。
やる気はコントロールできない
「あ~!やる気が出ない」と思い始めたときは、「一部の超人、変人を除いて、やる気やモチベーションはコントロールできないのだ。」と思うようにしてみる。(コントロールできているのかどうかも計測できないのだけど)
普段からも、やる気をもって取り組めた自分を過剰に評価せず、ろうそくの火をふっと消すように微妙に脱力して、一つ一つをノウノウとやってみようかな。今日、ふっと脱力した状態で、やれたことにフォーカスしてみよう。
やる気なく取り組んだことも終えてみると愛着や達成感が沸いてきて、楽しくなったりする。「やる気が親で、子が成果」なのではなく、「成果が親で、子がやる気」という構造があるのだと思う。
「がんばる」は、良き友か。
私がつらいときに、掛けてもらって一番うれしかった言葉は、「がんばってるね」でした。辛かった言葉は、「がんばってないね」でした。
「がんばれ」は、「がんばってないね」に脳内で変換される可能性があるのだけど、「がんばること」自体がダメだとは思ってない。ヒネクレ者みたいだけど、そう思う。
「焦らず騒がず自分のペースで、でもいつかは病と向き合っていきたい。自分の思考の癖と寄り添っていきたい」ということ。それは少なからず「がんばる」という要素が含まれていることを頭のどこかで理解している。
だから、「やる気」だけを悪者にせず、フッと脱力して、やれたことにフォーカスする。いつかは「がんばる」と良き友になりたいなぁ。ゆるふわ。そんな感じ。