まあいっか感
家にいると、もう!ここにはテレビのリモコン置かないでよ。とか、朝のカフェオレはそのグラスじゃないのー。とか、よくわからないことを指摘される。
そんなのがイチイチ気になっていたら共同生活ってできないなぁ、というのが所感です。テレビのリモコンの位置を決めたからといって、私の人生は狂わないのである。なので、まいっか。的な感覚である。
そして最近では共通の嫌いな奴をつくって、定期的に嫌いなポイントを共有しておくと、共同体としてバランスが取れることがわかった。いやそれ以外に楽しいことも話してますけどね。共通の敵の話の方が熱というか短期的にドライブがかかりますよね。んで話のオチは必ず、あいつとは関わらないようにしよう。である。これで一家は安泰。
ただし、共感できないものには安易に同調せず、へー!で?である。安直な迎合は不要である。
そんなわけで、遠距離恋愛している彼女がある試験に向けて勉強しているのですが、今日一次が終わったそうで。とにかく今日は美味いビールを飲んでほしい。
先週はよくわからない怒りをブツけられてしまったが、ポイントはもちろん、まいっか感である。そもそも怒りの正体が、取るに足らないものなのだ。癇癪なのだから、嵐が過ぎ去るのを待つばかりである。止まない雨はないのである。
僕だってたくさん世話になったのだから。このくらいは呼吸をするように受け止められるのである。いや呼吸はウソか。
自分に心に効く薬を自分で作る
自分のかいた文章に救われることがある。
前向きな文章は、「置く環境や、考え方がかわれば、こんなに落ち着けるのね」ってなるし、荒れてる文章は「こんなこあったけど今生きてるよ」とか「荒れすぎww辛かったねよしよし」ってなる。
しかしまあ。ほぼ毎日書いてるもんだから、読みたいものが見つからない。なにを読みたいのか分からないのに、読みたいものを自分は書いているだろうという変な確信があるのだ。
だから見つからなくてもいいし、見つけるために読み漁って違う文章に出会ってもいい。見つかったら、意外とどうでもいいこと書いてたりして、自分のなかで答えが浮き彫りになる。だからつまりどうなってもいい。
検索機能が低いから、自分で自分を立て直せるメカニズムになった。これって、新しいトリビア二なりませんか?
6年ぶりの地元生活で新たにわかったこと
5ヶ月くらいニートやって、仕事辞める前のお金で行きたい場所に行って、色々な人に助けてもらいながら過ごす生活だったけど、先月からローカル社会と交わりはじめ、地に足が着いてる感っていうか、「地繋がり感」を感じてる。
田舎の地元って、よくわかんないタイミングで知り合いに出会うことがあって、大学時代とかに、ワンナイトラブした翌朝7時に女子と2人で地元の大きな駅の近くを歩いてると、中学の時のあまり話したことない同級生とすれ違ったりする。
今だって別になにもないのに、女の子と歩くのドキドキするよ。え?自意識過剰ですか?そうですか。
なんなのよこの緊張感。といいつつも、ローカル特有のお忍びスキルって、あると思うんですよね。これが東京だったら、なにも心配しなくていいのにって思いますよね。
むかし、スパ!の記事で、出張サラリーマンは事前に出会い系サイトで出張先の女性にアポをとっておいて不倫する。みたいなのがあって、ローカル女性は地元友人とのエンカウントを気にするのでホテルで飲み直そうっていえば簡単に行ける。みたいな、下世話な。いやはや下世話な。下世話オブザイヤー2017に堂々とノミネートできるくらい下世話な話を妙に納得して読んだもんです。
地に足が着くって、こういうことなのかなもしかして。
作戦はあっけなく失敗に終わった
鉄道に乗り換えてやろうと思った矢先である。手持ちのキャッシュが430円しかないことに気づいた。父の田舎までは1400円必要だ。これでは辿り着いて現地でお金をおろすことすら、ままならない。
しかしここで負けてたまるかと、鉄道に乗り換えず田舎の鈍行に乗り続けてやった。するとどうだろう。
全く知らない駅名がつづき、あたりはどんどん暗くなる。無人駅の出口にポツンと自動改札機が置いてある。民度が、秩序が試されている。
突然の便意に襲われたが、無人駅のトイレを使うのは精神衛生上、ムリなので降りて引き返すことにした。この手の決断力は優秀である。次に降りる駅は、すぐに折り返し電車が来るだろうか…
iPhoneを触ると、圏外になっている。
山の間をくぐりぬけるこの鈍行は、いよいよ県境の目前まで来ており、トンネル内を通過していた。私に帰りの電車を調べることすら許さない。
ええい、降りてやれ。
グェーグェーグェーグェーグェーグェーグェーグェーグェーグェーグェーグェーグェーグェーグェーグェーグェーグェーグェーグェーグェーグェーグェーグェーグェーグェーグェーグェー
カエルの声が無数にこだましている。山と山の間に、駅がポツンとある。駅というより線路の両脇に乗り場を後からくっ付けたような場所。
駅から辺りを眺めると、山奥の麓まで水田が連なっていた。カエルが不規則に鳴き、アナログサラウンド。次の電車まで15分だ。
さあ、帰ろう。無人改札を素通りし、線路の反対側に移動した。
偶然にも、同じく乗る電車を間違えたらしき女性がいる。偶然にしては気持ち悪いが、私たちは5メートルくらい距離をあけて、ほぼ同じ速度で線路の反対側へ移動した。
誰かに電話して「まちがえたー。今から2時間くらいかかる。」と笑っている。
こんな時間にこんな駅を使うのは、頭のおかしな2人だけだった。
駅の街灯にはおびただしい数の羽虫が飛び回っている。バイタリティ。
来た電車はガラガラで、乗り込むと、今日本当は行きたかった父の実家の、納屋の匂いがした。湿った土の匂い。懐かしい。
遠くのローソンは銀河を漂う恒星のごとく、近くのビーノは流れ星のごとく、光っている。
通過する駅は段々と大きくなってきた。
よし、帰ろう。
Aでなければよい、ということは、任意のBでよいということになりますね
「〜しない」という指示があまり前向きに作用しないってのはよくある話で、Aを遠ざけるためにはAを遠ざける努力をするよりは、全く違うBに取り組む方が良いということ。
ピンク色のキリンのことだけは、絶対に想像するなよ!と言われたら、10秒くらいはピンク色のキリンのことを考えるはずだが、真っ赤なライオンのことを考えようとしたらピンク色のキリンは頭の端っこに蹴り飛ばされるだろう。
女性差別を除外する方法を探し続けている限り男女間のノーボーダーは訪れないだろうが、(男女を問わず)人間が活躍するためのメカニズムに集中すれば、新しい展開があるだろう。
目的は、NotAを実現することではなく、AおよびNotAを意識から遠ざけることにある。本質的にAにフォーカスしない選択肢を自ら創っていかないといけないんだ。
だから今日は、晩御飯をサボるために恩師にご飯に誘われたと嘘をついて(本当は誘われてたけどドタキャンされた)、鈍行と鉄道に揺られて父のふるさとまで電車でいくことにした。片道1時間40分。
本は忘れた。のんびり外を眺めることができるってことだ。
重さを変えて、自分の人生を生きる。
今朝は雨模様で、お腹の調子が悪く、気持ちも身体も重たかった。腸からセロトニンが出てないからかな?とか思ったり。
腸だ、セロトニンだ、と頭で分かると、少し気持ちも落ち着く。いま、腰グルグルお通じ良くなれ体操をしながらブログ書いてる。そのまま寝る。
友人が、あまり仕事のことを重たく考えすぎない、という選択肢を提案してくれた。
なぜ仕事に対する認識が重くなるのか。
仕事を通じて尊敬する人に出会ってきたからだ。自分の、また誰かの仕事を通じて感動してきた経験が多いからだ。
そして、仕事は、生きてる実感との重なりが大きいからだ。
本当に重なってるのか?いやいや重ねているだけだ。「仕事と生活」には、生活を送るレベルでの重なりが必要にはなるが、「仕事と生きがい」の重なりは、心の持ちようのみによって形成されるだろう。コントローラブルなのだ。
コントローラブルってことは、代替可能性を秘めているということだ。替えのないものはコントロールの余地がないのだから。背反証明。
いやいやそうは言っても、仕事と生きがいを重ねがちやん。なんでかな。
・工数的に生活の大部分を占めるから意識の表層にあがりがち
・給与等で定量的な評価が示されるから、豊かさが計測可能な錯覚を覚えがち
・子どもとかいたら、自分の稼ぎが自分以外の人のための人生に影響を与えるから盲目的に頑張るほかなくなる。
とか。
…考えてみたけど、寝ぼけた頭ではこんなチンケなアイデアしか浮かばない。自分の人生を生きてないタイプの見解しか出てこなかった。
うん、そうだね。自分の人生いきたらいいよね。