根が深い。

自己愛を手なずけたい人へ。

計画を立てることの恐怖

昔から計画を立てることが苦手だったけど、それは単なる怠慢で、怖いからではない。

 

うつになってから、約束することが怖くなった。

急な気分の変化でドタキャンしたくなったり、ドタキャンできなくって鬱屈とした気持ちで出かけたり、出かけた結果いやな気分になったらどうしよう。

計画していた通りに、思い通りにいかない自分がもどかしくなるくらいなら、ひとまず行き当たりばったりで生活していたい。

そんな風に思うようになっていた。今は、当時よりもよくなったものの、大きな計画を描くことが苦手なことがある。

 

厳密には、描いていてワクワクする未来と、ワクワクしない未来がある。

 

正社員にならないと、婚約相手の親が認めてくれないから正社員になるためには・・・という計画は全くワクワクしない。だって、心の底では結婚しなくていいと思ってるから。一緒に生きていけるなら結婚なんてしなくていいじゃない。と。

でも相手は結婚することで幸せになるなら、僕にとってはどちらも変わりのないことなので、、じゃあ、結婚しようかと思っていたが、その矢先に鬱になり、向こうの親もそれで婚約破棄せよ!とはならず、理解を示してくれたけど、「働いてないなら、結婚はむずかしいよねぇ・・・」と。それについては全くそうだなと言う気持ちなので、異論はないのだけど。「わかる」と「つらい」は私の中に同居し得るのである。要するに誰も悪くない。

 

「あんたしっかり考えや。自分の人生なんやから」と親から心配されるのも、有難い気持ちが3割で、黙っててほしいと思う気持ちが7割。もはや、「わかってますよウダウダ」と返すのもめんどうなので、「はい」と返す。ウダウダ言うと傷つくのだ。親も私も繊細なのだ。

 

描いていてワクワクする未来もある。縁のある欧州3各国と、私がかかわっている日本の楽団で合同コンサートをする夢がある。そのためには英語も話せなきゃ!お金も貯めよう!阿鼻叫喚のレパートリーを用意して!それまでの下積み時代も、後から振り返れば楽しかろう!ああ!ワクワクが止まらない!

 

これが内側から湧き出るものか、と気づく。

 

とはいえ、どんなにワクワクしていても、そこに足を踏み入れると、イライラしたり、「こんなはずでは・・・」と思う瞬間が訪れるのだと思う。だからといって、自分からワクワクする感情を遠ざけたりするのは、やっぱりできないから。

湧き出るワクワクに向けて、、「このくらいなら失敗したって、自分の大事なものは失われないぞ」と思えるものへトライしていく。

 

実は今日は、やることが7個くらいあって、雨も降ってて気分がドゥーン。ドゥーンの時は、テンパってしまい、適当な順番に手を付けて、後から後悔するのだけど、昨晩がんばって「この順番でやる」というのを決めていたので、落ち着いてやれる。

 

計画を立てた自分、えらい。よくがんばった。

人生、いつまでたっても第2章なのでは。

長期アルバイトの採用をいただきました。やっぱ嬉しいもんは、嬉しい。上手くいけば、全国主要都市への転勤もできて、パート採用・契約社員採用になるかもとのこと。

 

いきなり週5日×8時間の勤務で彼女には心配されてるけど、やってみて考えよう。朝、早起きしてやりたいことやるスタイルにしないと。

 

人生を、自分を主人公とした物語だと考えるクセがいつからかあって、大学を卒業する頃には「よし、ついに第六章に突入」とか思ってたけど、最初の転職の時には「さあ、第2章だ」つってて、鬱になったときも「第2章」とか言ってた気がする。

 

人が短期的に思い起こせる情報なんて、限界があって、どのタイミングでも人生はハイライトになると思う。

 

だから、「今が新章」という気持ちで進むのが僕には適してるみたいだ。
新章は、明るい物語じゃないかもしれない。鬱屈としてるかも。残酷にも自分の代わりは居ない。都合のいい時だけ自分を生きることはできないんだな。

 

でも、多くの人が、一回は輝いたことがあると思う。究極言うと、偶然が重なって現世に生まれてきたことが1回目の輝きだと思う。人によっては、中学校時代の人生最大のモテ期とか、30代の大出世とか、色々あるかもしれんけど。

 

そして、ふと気づくと、自分の理想に追われる感覚になってて、自分が何もしなくても生きてるだけで輝けることを忘れてしまうんじゃなかろうか。

 

だから、気を取り直して、今から2回目に向かっていけばいいのだ。誰でも第2章が始められると思うのです。

書くこと、書かないこと

字を書くことについて、何度か今までも書いたことがある。私は、あるものに依存していたのだけど、字を書くことでそれがかなり抑えられた。私が世界に触れている感覚を執筆は与えてくれた。

 

ブログを始めた頃は、書きたい!書きたい!あー!だったし、書きたいことが自分の中にないことのもどかしさや、書きたいのに字が出てこないもどかしさがあった。「もどかしい」って漢字で書けないのかね。読みにくいね。

 

執筆は自分に立ち止まる時間を、立ち止まることへのokサインをくれていた。もどかしかったあの頃は、立ち止まりたかったんだね。

 

今は、もう一周まわって、あまりもどかしくない。書くに値する感動を求めながら、書くほどのことでもない日常を大切に生きていると感じる。

 

東京で会ったひとと、たくさん話せたのが幸せだった。うん、まさにこれである。今、得るべくして得た出会いだと感じ、ちょっとやり過ぎじゃないか?というくらい自分の時間を使っているけど、そういうタイミングなのだと思う。「無理しないように」と妙に心配したり焦ったりして、闇雲に「何もないところ」をニュートラルにする必要もなかろう。

 

つまりだな、立ち止まって書く必要がなかったのだ。新しい私。最近、まったく本を読んでないのも関係あると思うので、読み始めたらまた書くと思うけど。うん。

 

そういうえば、東京でミュシャ展に行ってきた。友人と行ったのだが、その友人は解説を読まないと気が済まない性分だった。読んだ解説を私に要約してくれる。それを私は、50%くらいのチカラで聞いている。

そもそま、私は解説があまり好きではない。解説なしで感じるものを大切にしていたい。最後にサクッと解説を読む。

 

そんな話の流れで夜の飲み会では、コミュ力の話になったのだが、その解説好きの友人は「コミュ力が高い」と言われるのだそうだ。私はまったくそんな風には感じなかったので、こう伝えた。

「君の言うところのコミュニケーションてなあ、絵画の解説を読むみたいに誰にでもわかる文脈を発掘し、それを声を大にして読み上げるようなもんであって、文字化できないコンテクストへの想像力を失わせる振る舞いで、とてもコミュ力が高いとは思えない。分かられてない/分かってあげられてないかも知れないというのとへの不安がコミュ力の源泉であり、そんなはつらつとされてタマルモンカって話なのです」と。

すると一緒に飲んでいた他の友人も近い感覚があったようで、妙に市民権を得てしまった。

どちらが解説者なのか、わからなくなってしまった。私の言ってることが理解されないことに、本質的な価値があったのに。

 

そんなことを考えていたら、あっという間に終電がくるのだ。東京はみんなをシンデレラにするのね。

さらば東京

東京は美術館が多くていいね。それだけで住む理由が10ポイント加点。外国の人が多いのもワクワクする。また英語の勉強したいなあ。

 

大切に人に会い、大切にしてもらい、大切にできて癒されました。他愛もない会話。ゲラゲラあはは。「私はここにいる」という感覚。自己貢献感。

 

前職の後輩がメンタルダウンしたと聞いて色々な縁で再会。焦らなくていいんだよ、という言葉は自分に向けたエールでもありました。後輩ちゃんから見ると、私が今でも日々焦ったり喜んだり日々過ごしていること自体がよい驚きとして受け容れられたようで、良かった。そう私、ぱっと見ネアカだから。自己貢献感。

 

これから家主と最後の晩餐。

新宿のババア

東京の旅も残り2日となりました。なんとか予算内におさまり、帰れそうです。

 

今朝も今朝とて、外で一晩干したバスタオルをもって風呂に入ろうと…あれ?ない?

 

家主にも聞いたが、家の中にも無いのである。そういえば、昼間見たときは、また洗濯バサミがつけられており、微笑ましく思っていたが……間違いなく隣人が自分のと間違えて回収したのだ。

 

なぜ洗濯バサミが微笑ましいかは、こういうわけなのだけど。

居候生活3日目 - 根が深い。

 

他人の軒先まで物干し竿をのばしておいて、そこに掛けられた他人の洗濯物を自分の所有物にする。そんなことが、うっかりでも起こりうるだろうか。

 

この世界は謎につつまれている。コンビニでタオルを買ってくる。

 

 

友よ、出産と婚活と血圧よ(追記)

バッハのコラールみたいなタイトルだな。それを言うなら、主よ、人の望みの喜びよ。である。アーメン。

 

冗談はさておき、違和感がずっと私の頭の中にある。先ほど昼に話した友人との会話の違和感がこびりついていて。大切な友人なので、この手の違和感は、今まで放置しておくことが多かった。どうなろうと大丈夫だと思っている。

(友情とは何なのか、という問いについては今は答えない)

 

ただ過去に、その手の違和感を放置したことがあり、そして後悔したことが一度ある。もっと感じたことを伝えればよかった。例え、友の結論が変わってなかったとしても。最悪しばらく疎遠となっても。

 

また今回も、私は言えない気がしており、しかし言いたい。ただ上手く伝えられるか不安なので、今ここで展開してみたい。

 

その友人の主張はこうであった。

 

1.他人に対して、ファックユー的な考えや言動が出てしまう、そんな自分がいやになる。

2-1.子を持つ女性は往々にして慈悲深く、私もそうでありたい

2-2.加えて女性に生まれたからには、愛する人との間に生まれた出産の神秘を体験し、自分の身体から生まれた子を愛し育てたい

3.ゆえに子種が必要

4.ゆえに婚活する

 

論理的な飛躍が激しい。目的と手段が一致していない。従って、指摘もチグハグなものになりやすく、響かない可能性がある。切るところを間違えると神経を傷つける脳オペのような気分だ。

 

1.他人に対してファックユー的な考えや言動が出てしまう、そんな自分がいやになる。

・A1-1.こうありたくない、というゴール設定は健全で合理的な手段を選べなくするリスクがある。どうありたいかを考えて欲しい。

・A1-2.だいたいは空腹、生理前、二日酔い、嫉妬、期待への裏切り...etcに起因するものだと思われる。そして、1人の人間に対して温情や慈悲やファックユー的なことを思うのは極めて人間らしい。人間は不完全に作られてるんだ。必ずしも子を産む必要はない。


2-1.子を持つ女性は往々にして慈悲深く、私もそうでありたい

・A2-1.多数の例外を知っており、それらはA1-2である。水を飲んで深呼吸しろ。10数えてから今の怒りを気持ちを10段階で評価するとか、そういう対処法が世の中にはあるのだ。必ずしも子を産む必要はない。


2-2.加えて女性に生まれたからには、愛する人との間に生まれた出産の神秘を体験し、自分の身体から生まれた子を愛し育てたい
3.ゆえに子種が必要
4.ゆえに婚活する

・A3-1.「家庭を持ちたい」という共同体感覚(=他者を自分の一部として生きていく感覚、人間が他の動物より弱いために必要とする種としての生存手段、社会性)をあまり感じなかったところに違和感があった。身体性の神秘とか、感動や苦労によって後に美談となるのだろうか。そんなサザエさんみたいなのって、有り得るのだろうか。私の母は、私が病気で実家に帰ってきた時に、謝りながら自分自身に怒っていた。私も泣きながら自分を恨み、怒鳴りながら謝っていた。そこに渦巻いていたものは自分や他者に向けられる愛憎だった思う。幸せとは何なのか、わからなくなった。何歳になったって、子と親は、そんな矢面に立たされる運命を背負うのだと知った。

・A3-2.子を産めば見えてくる想像を絶するもの(幸福も、苦労も)が到来してからでは、引き返せない。それを私がひたすら心配しているに過ぎないのだけど。心配しているからと言って、後から鬼の首を取ったように「ほら見たことか」と主張するつもりもなく、ただ、私には友人を支える力がなく(もちろんダービーで、500万くらい買っていたら少しは援助できるが)、心配が募る。心配とは、リアリテへの希求だ。友人は東京で産むのだろうか。実家に帰るのだろうか。仕事はどうするんだろうか。そんなことが結構まあまあ楽観的になり、それでいて地に足が着いてる感じがしなかったのが少し怖かったし、ファンタジックな何かにほだされてるんじゃないか?と思って、ふうとお代わりの味噌汁を飲んだ。私にそこまで言われる言われがどこにあろうか。「私は心配している。」ということに過ぎない。

 

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やや、まあ本当に良い相手を見つけ、結婚するとなったとき、果たして「子どもが欲しい彼女」がそこにいるだろうか、それすらも疑問めいてきた。

行きたい方へ行けば良いと思う。その過程で当初のゴールを見失ったとしても、そのことに気づくための旅なのではないかと思う。気づかなくても、それはそれで人の道なのだから、いいじゃないかと思う。

そうでなくても、私たちは知らないうちに多くのものを選んできているのだから。