根が深い。

自己愛を手なずけたい人へ。

ゴールテープの位置

コンサートが終わり、3日くらいはアドレナリン?が出てて手がつけられない。下手するとこのまま鎮火して後処理の大事な仕事がちんたらしてしまうので要注意。

手がつけられないと思ったら、とりあえずパソコンのファイル開いて、やること箇条書きして、あとは寝る。寝て起きたら、パソコンに書いてあることを頭使わずこなすだけ。

これでなんとかなる。

 

未来を描く力が復活してきた。大きな夢がある。同時に目の前のことも。ピントスピードの切り替えが速い個体になりたいが、そう簡単に変わらない。鍛えなきゃ。

ゴールテープの位置は、ピントが変わるとボヤけてしまう。ピントが変わっても見失わないようにしないと。

 

今日は、知り合った人に誘われて地元の合唱団へ見学に。入るつもりはないけどどうやら人不足らしく、手ぐすね引いて待ってるらしい。ところで手ぐすねって、一体なんだろう。

 

場所は田舎の公民館。普段と違う方向ゆきの快速電車で南へ二駅。そこからローカルバスで30分。歩いて5分。果たして帰れるのだろうか。

 

とりあえず楽譜はあらかた読んだ。良い時間になりますように。

休憩が必要

終わった。大波乱もあり、挫けそうになりましたがなんとか終わった。よかったこともある。反省もある。

 

お客さんの反応がよかったこと、良い仲間に出会えたこと、素晴らしい哲人と出会えたこと、自分の中の甘えた部分に気づかせてもらえたこと、無理するとオチが待ってること、いろいろなことが入って来て、ちょっとオーバー。

 

今日明日は何もしたくない。ちょっと休憩。

東京へ来た。

午前中で準備は80%終わった。小さいのが片付いただけで、今から少し昼寝して、午後から大きい20%をやる!

 

今回の演奏も素晴らしいよ。

 

この団体の演奏やメンバーは、私が一番底にいたときに私を助けてくれたから。自分の生きてるうちは努力しつづけたい。

 

人が突き動かされる根っこの理由には、コントロールできない大きなものがあるような気がする。たまたま自分にとって、それが運命的だったんだと思う。

そういうわけだ。

不安を書き出す

今夜は歌の練習をして、夜は夜行バスに揺られて東京へいく。集客は目標に届かず思わしくない。けど、やれることは全てやった。これが私たちの姿なのだ。最高の体験を受け取ってもらうことに集中。

 

これから準備した内容を確認する。穴があくくらいチェックする。緊急事態をシミュレーションして、心身ともに整えておく。それでも不測の事態が起こったら、どうすべきか各位に相談しておく。

 

大丈夫。なんとかなる。無事に終わってほしい。

意味を見出す

職場のおじさんが掃除は心を磨いているのだと大きな声で説教しており、席替えで向かいの席に座らされている先輩が不憫でならない。

私はそんな話を楽しそうに聞く器を持っていない。

 

つまらないことをやってたり、暇な時間があるから、悩み始めるという話は往々にしてある。

悩み全てが「そんなことを考える余裕があるから」と一蹴することまではできないにしても。

 

つまらないことをやっていると、考える余裕が生まれる。次第に自分のやっていることに意味を与え始める。

確実にしかしゆっくりと向かってくる死という不安に意味を与え始める。

 

わからないこと、つまらないことに自分なりの意味を与えて自分の一部として引き受けることを悟りと呼ぶのではないだろうか。

 

だとすれば、人から「掃除をして悟れ」と強いられることは悟りの姿勢、つまり、自発的に見い出す姿勢から最も遠いことになるだろう。

 

職場の、朝の掃除時間にそんなことを考えてた。

いつでも誰かが

仕事でミスをした人を責めてしまった。いや仕事のミスは適切に指導して、修正してもらい、同じことが起こらないようにしていく。同じ組織の人間としてそれは相互の責任であると。そゆのは分かってる。

 

その人は職場での評価が低くて、私以外の全員から見放されてしまっている人だった。私はその人の自尊心が削がれていることに気づいて、ずっと良い距離を保ちながら自尊心の回復→スキル向上の意志確立を期待していた。

 

責めてしまったすぐ後、謝って今回の話を整理し、その人にとってなにが課題なのか。自分が課題解決に貢献したいことを誠意を込めてお伝えしようと思った。しかしその人は「あ、今忙しいので後にしてください」と言われてしまった。

 

残念ながら、私はその人とトレーナー・トレーニーの関係には無いのだ。当然ながら、本人は自分の意志で、私から何かを教わろうと決めたことなどないし。私もただのお節介なのだ。

タイミングや境遇が違えば、そういう関係になり得たかもしれないが、少なくとも今はちがう。違うのだ。

 

そんな厳然たる事実があり、私は二重で自分の底の浅さ。カッとなってしまう自分の未熟さと、人に期待しすぎる自分の楽観性の2つに、落胆した。

 

 

しかし責めてしまったときの、その人の目は絶望だった。思考が止まっていた。今この時がすぎるのを待っている目だった。

 

いつでも誰かが、誰かの正義で誰かを泣かせでいるんじゃないだろうか。