恋愛におけるリーズナビリティと婚活
以前に婚活について書き捨てた笑けど、はたと読み返すとなかなかに酷い内容で、やはり人のために書くとロクナコトガナイ。その割にまま多くの人に読まれているそうで、ちょっとアレなので、朝の15分でリトライする。
全ての行動には目的がある。行動の先に目指すものがある。なにかをゲインするリーズンがある。
これをやれば、何かをゲインできる。ゆえに行動する。
この構造式の論理性の高さがリーズナビリティ。
恋は盲目とかいいますが、おそらく盲目に見える人というのは、周囲に理解されるほどの論理性がない。リーズナビリティが乏しい。説明がつかない側面がある。それでよし、とするのである。幸せならよい。
婚活はどうか。恋愛と結婚を並列するのは気持ち悪いけど、わかりやすく比べると結婚にはリーズナビリティが求められる傾向があるようにおもう。結婚、つまり人生の大きなディシジョン。
ディシジョンと言ったのは、決断と判断があるということで、人によっては結婚すると決断する人と、結婚すると判断する人がいるだろうと言いたいから。
A or Not-Aのどちらかのボタンを押さないといけないとき、それを断つと呼ぶとすると、必要な情報を集めたリーズナビリティの高い状態で断つことを判断と呼び、一方"決め"で断つことを決断と呼ぶ。決断するときって、独特の高揚感と覚悟が両立するよね。
リーズナビリティなディシジョンすなわち判断と、高揚感・覚悟を込めた決断を複雑に織り交ぜながら、人は生きてるのだと思うけれど、
自分は決断モードに入っているのに、意識した相手が判断モード・リーズナビリティを発動しているとき、私たちは世知辛さを感じるのだろう。
リーズナビリティ・世知辛さと、高揚感・覚悟のはざまで苦しむであろうことが予測されるセンシティブな方には婚活をお勧めしない。
小さな自由
昼ごはんを食べるのが早い。すごく早い。食べると言うよりは、飲んでる。
空いた時間は持ち込んだ本を読んで過ごしたり、用もないのに本屋をフラフラ。仕事で厄介があったりストレスを感じた時は、決められたことと違うことをやりたくなる。時間ギリギリまで本を読み進める。時間ギリギリまで本を漁る。エキサイティング。
このブログもあと1分で書かないと。
最近通っている居酒屋は、昼も夜も客がいないので、店員にはすっかり覚えられてしまった。大将はシャイボーイ。嫁さんは調子に乗りやすい。娘はニンテンドースイッチをやっている。
定食につく100円のアイスコーヒーで、だらだらと居座るのだ。
小さな自由をいくつか育てる。
アドレリアン
アドラー心理学を用いたカウンセリングを独学で勉強している。アドラーは「勇気づけ」を推奨しているが、それは褒めることとは似て非なるものだとしている。
褒めること、すなわち条件付き評価は、内発動機付けを阻害するため、起きている事実を客観的に述べ、それがその人のありたい姿に沿った姿であることに気づいてもらう。軸を作っていってもらうようにすることを推奨している。
そんなことを考えていた矢先、ある資格に向けて頑張っている友人と話すことがあり、話していくうちに変な感じになり、とうとう「褒めて欲しかったのに」と言われてしまった。なんだこいつ正直すぎる。なんて思ったりした。
なんて思ったりしたけど、私も傷ついた。今までだったら普通に彼と仲良くやれていた私は、なぜか彼を怒らせてしまった。私がアドラー心理学を勉強し、それを通じて彼を捉えようとしたからだった。
正直、アドラー心理学の勉強をもうやめようかと思ったけど、もう少し頑張ってみようも考えたのは、私は私の目的に、つまり「多くの人が内側から輝いて生きていけるようになってほしいという願い」に向けて、精一杯振る舞うことをアドラー心理学は推奨するからです。
だから、もっと学びたい。もっと。
果たして、条件付き評価を求めるこの友人のことを、アドレリアンはどう扱うべきなのでしょう。
私なりの見解では、もう一歩メタ認知に踏み込んでいく必要があるのかなと思う。彼の軸を探すために。
なぜ彼が、そこに他者からの「褒め言葉」を必要とするのか。彼にだって褒められなくたってやってることもあるけど、それとこれの違いは何か。
本当は、内側から輝ける人でも、外発的動機づけに手を伸ばすことがあります。それにだって必ず何らかの目的がある。安易にそれを否定せず、それを尊重していく解法を前提とするアドラー心理学を僕は大切にしたい。
そんな気持ち。
自炊生活5ヶ月続けてわかったこと
実家で暮らし始めて、生まれて初めて他人のために料理を作ってる。晩ご飯。
自分のための自炊だって、「ご飯を大量に炊いて冷凍し、大盛りレトルトカレーを煮沸して食べる」くらいだったので、
今みたいに煮物や焼き魚などリアルガチの料理をやることになるなんて。思ってもみなかった。
料理を始めてよかったことは、いくつかあって、
まず一つ目は集中できること。初心者なので、30分くらいの料理を1時間くらい掛けないと作れない。黙々と作業に励める時間は、後から考えるとスゴく意味があった。脱・邪念。特に何にも意欲のなかった頃には、よかった。
くちうるさくて、病気をする前は家で一番料理がうまかった父も、頼まない限りは口を挟んでこない。なぜなら彼は、習慣であるナンプレに夢中だからである。
二つ目は、出来たものをしっかりと自分の口で味わって食べるようになったこと。やったことがすぐに結果として味わえるのは、今考えるとすごい大切なことだった。
たまに疲れてスーパーの惣菜やコンビニ弁当を食べるとき、素材ではなく味付けやタレを食べてるだけだと気づいて、自然と自分は味付けやタレに頼らずやりたいと思うようになった。
これが、マインドフルネス・イーティングみたいなものだと気づいたのは、つい最近で、なるほど、と思った。
先週から週5日フルタイムで働いているけど、黙々と料理はやっている。素材だけが届く通販を利用していて、献立を考えるストレスや、余り物を使うストレスもないのが、初心者の私にはちょうどよかったのだろう。
一人暮らしだったら、ここまでちゃんとやらないだろうなあ。
季節の変わり目に風邪ひく
年間で四回は風邪をひく。だいたい冷房を入れっぱなしにしたり、使うべき布団が薄すぎたりする。
今朝から鼻水が少しズルズル。のどがゴリゴリ。昼飯はセルフうどんで汗をかいた。熱いものを食べてかく汗は、日差しに照りつけられてかく汗と違って気持ちいい。じっとり。
我が故郷の夏は、梅雨期もあまり雨が降らず、熱い。県北へ行くと、サマーウォーズに出てくる自然豊かな日本の原風景が広がっている。
週末、鈍行でどこか旅に出たいなあ。
私がコーチングを学ぶ理由
今でもあまり自覚してないのだけど、悩みを相談するのが苦手だった。何をやればいいのか、頭でわかっているので、相談する必要がない。と早々に結論づけているのだとおもう。
今になってわかるが、相談には、判然としない気持ちにムリやりな論理を当てはめて認知を歪ませるのではなく、そのモヤモヤを自分の中で飼いならしていく、モヤモヤさせておく猶予期間を与える効用がある。
それはある種の愚痴のようなもので、解決せずして折り合いをつけていく。長い目で処理していく。局面だけを切り取ると、ただ現状を打破せず愚痴っているように見える。そんな自分が嫌だったのだとおもう。
でも、判然としない気持ちと同居していくことが、心の弾力や耐久性を上げるんだと、最近知った。
病院に通い、カウンセリングを受け始めると、予想をこえて効果があった。私は自分の考えを整理して言葉で話す力が高いらしい。
職場の自分を嫌っている上司が、どんな被害者意識を心の中で燃やしながら、私を憎んでいるのか。一体どんな裏切られ方をすれば、こんなにも他人を信じられなくなるのか。なんてことを、憐れみと怒りを込めて、ずっと考えていた。そうすることで自分を納得させていた。
病院のカウンセラーさんは、頭でっかちになった私の気持ちをほぐして、解放してくれた。
しかしカウンセリングが続き慣れてくると、次は、この話を聞いてくれるカウンセラーが何を考えているのかが気になり始めた。
カウンセリングが少し辛かった。頭良い子ちゃんにしていないと、いけないような気がしてきた。カウンセラーによる心理学講座を受けにきているような心持ちだった。
自然と私は、カウンセリングを学ぶようになった。
カウンセリングをする側に強く興味を持ったきっかけは、スクールカウンセラーが執筆した小説。症例集ではなくフィクションにすることで、守秘義務をクリアしつつ、重要なエッセンスを具体的に表現した実験的な小説だった。とても、生々しく、面白かった。
私は職場を離れたおかげで徐々に自分の気持ちに光を当てることができるようになり、カウンセリングの中でも、セルフカウンセリングが向いていることに気づいた。共感的姿勢、肯定的姿勢を簡単に構築できる。
コーピングを知って後ろめたさにケリをつけ、フォーカシングを知って判然としない感情を尊重する作法を学んだ。
今はアドラー心理学に基づくコーチングメソッドを独学で学んでいる。誰かと話しながら学ぶことを推奨されているメソッドだが、そこまでのアレじゃない。
アドラー心理学は難しいのだけど、しかし、誰しもが自分の望む方へ向かえばよいというアドラー心理学の基本理念が大好きだ。
誰かのコーチになりたいわけではない。
私を救うためにコーチングを学んでいる。