根が深い。

自己愛を手なずけたい人へ。

実験室と諦め。ストレスと鬱。

為末大さんが好きで、著作を何冊か読んでいる。いま、3冊目。全ての本に共通する思想があり、とても励まされた部分を要約してみたい。

 

要約。

・成功しつづけるひと、勝ち続ける人なんて存在しなくて、自分にとっての成功条件・ゴールを設定してそれに向かって失敗したり試したりできる環境を持つことが大事だということ。

・負けたくない闘いと、負けてもいい闘いを分けること。そして全ての負けを次に繋げること。

・闘い抜いた末に、あきらめること。諦めるとは、仏教用語で「明らかにする」ということらしい。後ろ向きな言葉ではないらしい。

(その他にも様々な考え方をエピソードを交えて説明してくれるので、ぜひ本書を読んでほしいです)

 

 

「ストレッチのある目標を掲げないと、成長しない」と、新卒で入社した会社の社長が言っていた。これについては「成長とは何か」って話からしないといけない気がするので割愛するが、それを言いたかった社長の気持ちを理解することはできる。

ただ、そのストレッチから受けるストレスは、耐えられるストレスなのか。ストレスの強さと頻度と期間を間違えると、壊れてしまう。壊れなくても感受性が狂ってしまう。脳がやられるから。

鬱とは、そういうことだと思う。

 

いつも通り接してもらえることで幸せを感じることもあれば、気を遣ったもらえることで有り難く感じることもある。

私が受信する情報は、「情報と自分の関係性(人間関係や、風景や匂いなど様々なものと私の心象の距離感)」によって、耐えられるストレスになったりもするし、耐え難いものにもなりえる。

 

そういうことに繊細になり、自覚して頭を整理していくのが鬱を軽減する一歩なのだとおもう。

キリスト教とわたし

昔ゴスペルをやっていたので、キリスト教のことを知る機会が多くありました。

といっても、日曜礼拝にいくのではなく、週に1回ゴスペルの練習の時に歌詞を通じてキリスト教の考え方を教えてもらうというもの。自分的には、宗教をやりに行っているというより、「歌いに行ってる」という感覚でした。

 

その後、趣味でコーラスを始めて、たくさんの宗教音楽を歌う機会を頂きました。今日は、A・ロッティ(Antonio Lotti)のCrucifixus(クルツィフィクソス)を聴きながら本を読んでいます。

 


Crucifixus (Lotti) - The Cambridge Singers

Crucifixusとは十字架、磔の刑、クロスのことです。この曲の冒頭が特に好きです。

イエス・キリストの受けた苦しみと死の直前に見える走馬灯が込められているように感じます。そして、終盤に向けての解結で救いへの感謝が込められているように感じます。

気が向いたので、この曲と、キリストの最期についてご紹介します。(ちゃんと聖書を勉強したわけでもないので、そこだけご了承いただきたい)

 

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<歌詞(訳)>

Crucifixus etiam pro nobis,

sub Pontio Pilato;

passus et sepultus et sepultus est

 

主は十字架刑に処せられた、われらのために

ポンテオ・ピラトの名の下で

苦しみを受け、そして葬られた

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キリスト教では、キリストが葬られたことで、人間が生まれながらにして背負っている罪をすべて埋め合わせたと考えられています。クリスチャン的には「罪を贖(あがな)った」と言われます。(無かったことにしたわけじゃなくて、)弁償したという意味です。

 

昔、キリストが弟子に裏切られて捕縛され、処刑され、3日後に蘇るまでを描いた映画『The Passion of the Christ(邦題:パッション)』が公開された時に、これについて細かく説明していたテレビ番組の内容が衝撃的で、今でも覚えています。BSでやってた気がする。キリストが受けた刑は非常に激しかったと言われています。

 

鞭打ち。皮の紐に動物のとがった骨をつけた鞭で何度も背中を撃たれました。背中の皮がはがれ、背骨がむき出しになります。そして重たい十字架を背負わされ、処刑場となるゴルゴダの丘までの道のりを歩かされます。着くと両手・両足に杭を打たれ、十字架に吊らされます。自重により肩は脱臼し、首が締まり、痛みは増していきます。そして処刑人により脇腹を槍で刺され、死ぬまで監視されたと言われています。あー書いてて、つらくなってきました。

 

曲中に登場する固有名詞ポンテオ・ピラトというのは、キリストを尋問し、処刑に大きく関与した総督です。私は、善悪を抜きにした文学的な意味で彼のことが好きです。

 

Lottiは不協和音と解結によって、キリストの受難と贖われた原罪を巧みに表現しています。十字架が何重にもかさなって、立体的に見えてきます。時間・空間を越えて、十字架が大きな意味を持って語り掛けてくるように感じるのです。

 

聴いていると、きゅーっと胸が痛くなり、ふわーっと和らぎ、心が揺さぶられます。名曲だなぁ。

やる気が出ないのメカニズムと耐用年数。

あれもやりたい、これもやりたい。と考えていると、やりたいと思ったのにいつの間にか、やらなきゃみたいになってることがあります。

散髪とか、洗濯とか読書とか、ランニングとかピアノとかブログとか。

でも実際始めてみると、楽しかったり、数分で終わったりして。

 

そういうときは、とりあえず散髪屋さんを探してみるとか、本を目の前に置いてみるとか、それだけで、スイーッと緩やかに動き出したりするからいいですね。

 

やり始める前(パワーゼロのときに)に「これを終えるには、100くらいのパワーがいるなー」と想像して、ちょっとした無力感がモチベーションを下げてるんですね。たぶん。

実際、私が会社で働いていた頃は、一気に集中して瞬発的に仕事を終わらせるタイプで、緩やかに完成へ向かう働き方をあまりやった記憶がない(それにやりがいを感じてない?)

 

実際、パワーゼロから突然100になるのって負荷が大きくて、徐々にパワーメーターを上げて行くほうが耐用年数が長くなりそう。人間も機械も似てますね。

何かを緩やかに続けてみようかな。何がいいかなー。

やりたいことが色々あります

今日は本をがっつりと読みたかったのだけど、やらなくちゃいけないことを思い出し、他にも忘れてないかとテンパっているうちに半日経っていました。何はともあれ、やるべきことは概ね片付き、ひと段落。

 

やりたいことが幾つかあります。すぐに叶うこと、努力すれば叶うこと、すごく努力しないと叶わないっぽいこと。

焦ったら空回りして悩んだり、落ち込んだりするので、焦らず騒がずやっていきます。

 

昨日、人にその話をしたら「100個書き出してみたら、いいよ」と言われた。100個出そうと思ったら、大きな目標を細かく砕かないと書けなくなるのだそうで、小さい目標にすると少しずつ達成していけるという理論らしい。なので気が向いたらやってみようとおもう。

幼馴染と再会

私は3歳くらいのときに今の家に両親と引っ越してきました。同じ頃、同じ団地に同い年の男の子も引っ越してきました。トシです。

記憶にある限り、人生最初の幼馴染です。結婚披露宴にも行かせてもらいました。

 

彼は過酷な人生を過ごしてきたんですが、独特のたゆみを持っていて、いつも強くたくましく、受け入れながら生きてきました。(前述の披露宴では、親族を含むすべての出席者の中で私が一番泣いてました)

 

今日たまたまトシに会い、飲みに行く約束をしました。ほんの数分の会話でしたが、暖かい居心地を感じました。彼に今まで一度も抱いたことのない感情。

実家に帰ってきて初めて、両親以外の心許せそうな人が現れました。

 

飾らなくていい間柄。ありがたや。

ボケからツッコミまでの距離感

お笑いはボケからではなく、ツッコミから考えろ。というのは私が大学生時代にお世話になった高橋先輩から教えてもらった数少ない教えの1つだ。それから私は、「上手い返し」について考えるときにこの言葉を思い出す。

日常の何気ない風景を面白く切り取ることツッコミと呼び、切り取られた風景が事後的にボケとなる。そういう構造がある。

 

そのツッコミが、自分の切り取っているものからかけ離れているほど面白い。意外だから面白い。切り取れないほどのモヤモヤを上手く切り取るから面白い。笑いの根っこはそこにあると感じている。

 

話は変わらないようで変わるが、私はくりぃむしちゅーの有田さんが司会をしている番組がどうも苦手で、本当に上手く番組を回していると思うのだけど、全く面白いと感じられないでいた。それは、今さっき気づいたのだけど、ツッコミの距離が近すぎるのだ。

みんなが分かっていることを、誰にでもわかる言葉で切り取る。その安心感。私はそれが苦手なのだとわかった。

怒ること、狂うことについて

私は観念的なことを考えているときに、ブログを書きたくなるみたい。今日は、『12人のカウンセラーが語る12人の物語』を途中まで読んだ。

実在のカウンセラーが実体験を元に執筆したフィクション小説という、非常に実験的な内容。全てカウンセラーの目線で描かれており、クライアントの内部を紐解いていく思考の過程が描かれています。

 

第2章「殺意の自覚」が自分と重なってヒリヒリした。

 

‪もしかすると彼女は自分の中の激しい怒りに驚き、それほど激しい敵意を抱いている自分の部分を認めがたく感じ、認めがたい自分の部分との衝撃的な出会いから抑うつ的になっているのかもしれません。(略)もしかすると彼女は、自分が敏感すぎるのどと考えることによって、自分の中の怒りを何とかなだめようとしていたのかもしれません。‬

 

‪会社を休職しているとき、私に責め苦を与えた奴らをめちゃくちゃにしてやりたい。会社ごと潰してやりたい。仕返しをしたい。

そういう気持ちを何人かに話したことがあるが、みんなが「そんなことをして何になるの?」と言った。はい、そうです。

無駄だと分かっていたから抑え込んでいたんだよ。「これから先ずっと、自分が抱く全ての憎しみと怒りは無視される。他人はもちろん自分にすらも無視される」という呪縛にかかっている自分が居たのです。

 

「このままだと私、誰かを殺すかも」という告白のほうが「このままだと私、死にたくなるかも」よりもストレスがあるよなー。

ニュースに出てくる殺人犯に向けられる世の中の拒絶感を否定はしないし、殺人を容認するつもりはない。それはそれとして、仮に自分の中に芽生えた殺意や狂気を処理できないときに、誰かに打ち明けられることは大切なことだと思う。

 

怒りに呑み込まれてしまうんじゃないか。という不安もあるけれど、それを誰かに打ち明けたり、このブログに書いたりしながら、1つずつ整理していけたらなあと思っている。

これから先も私を怒らせる何かは現れるだろう。自分の正気を保てるように、1つ1つやっていこう。

 

最後に第1章「生きのびるための死」から印象的な文章をご紹介します。

 

‪私たちは、自分の住む世界がなまのまま襲ってこないように自分という主体を守っている。(略)なまのままの世界に晒されることの恐怖に人は普通耐えられない。名前をつけ、その言葉の意味が誰かと共有できると信じることによって、かろうじて私たちは世界をコントロールできる自分を担保するのだ。‬