鬱あるあるそれは幼稚な論理化
後から考えればとてつもなく非論理的で、飛躍した「論理的っぽい何か」を抱きしめて、自分の包む強風(と自分が認識してるもの)をやり過ごそうとする構造。それが、鬱の形態の一つと思う。
鬱というのは、未来のない歩みだと思う。それは諦めの類型だとおもう。落とし所の見える無限。こういうもんでしょ感。だとおもう。
パッケージ化された循環論理の中で、はいこれもこのパターン(なので考えるのムダ)!そしてこれもこのパターン(なので考えるのムダ)!
を繰り返している。実は考えたいのに。
そうこうしてるうちに脳がBomb!して、どこが自分の思考思想の座標なのか分からなくなる。もともと座標があったかどうかは置いといて、わかってたつもりだったのに自分の認知を信じられなくなる状態になる。
この幼稚なパターン化。疲弊した私のキャパシティが設計できるギリギリの論理性によって、諦めと、諦めへの葛藤が醸成されていく。この葛藤が、時間とともに腐って内臓の内壁にこびりつく。
自分の幼稚さに。鐘を鳴らしてくれる人を大切に。