書くこと、書かないこと
字を書くことについて、何度か今までも書いたことがある。私は、あるものに依存していたのだけど、字を書くことでそれがかなり抑えられた。私が世界に触れている感覚を執筆は与えてくれた。
ブログを始めた頃は、書きたい!書きたい!あー!だったし、書きたいことが自分の中にないことのもどかしさや、書きたいのに字が出てこないもどかしさがあった。「もどかしい」って漢字で書けないのかね。読みにくいね。
執筆は自分に立ち止まる時間を、立ち止まることへのokサインをくれていた。もどかしかったあの頃は、立ち止まりたかったんだね。
今は、もう一周まわって、あまりもどかしくない。書くに値する感動を求めながら、書くほどのことでもない日常を大切に生きていると感じる。
東京で会ったひとと、たくさん話せたのが幸せだった。うん、まさにこれである。今、得るべくして得た出会いだと感じ、ちょっとやり過ぎじゃないか?というくらい自分の時間を使っているけど、そういうタイミングなのだと思う。「無理しないように」と妙に心配したり焦ったりして、闇雲に「何もないところ」をニュートラルにする必要もなかろう。
つまりだな、立ち止まって書く必要がなかったのだ。新しい私。最近、まったく本を読んでないのも関係あると思うので、読み始めたらまた書くと思うけど。うん。
そういうえば、東京でミュシャ展に行ってきた。友人と行ったのだが、その友人は解説を読まないと気が済まない性分だった。読んだ解説を私に要約してくれる。それを私は、50%くらいのチカラで聞いている。
そもそま、私は解説があまり好きではない。解説なしで感じるものを大切にしていたい。最後にサクッと解説を読む。
そんな話の流れで夜の飲み会では、コミュ力の話になったのだが、その解説好きの友人は「コミュ力が高い」と言われるのだそうだ。私はまったくそんな風には感じなかったので、こう伝えた。
「君の言うところのコミュニケーションてなあ、絵画の解説を読むみたいに誰にでもわかる文脈を発掘し、それを声を大にして読み上げるようなもんであって、文字化できないコンテクストへの想像力を失わせる振る舞いで、とてもコミュ力が高いとは思えない。分かられてない/分かってあげられてないかも知れないというのとへの不安がコミュ力の源泉であり、そんなはつらつとされてタマルモンカって話なのです」と。
すると一緒に飲んでいた他の友人も近い感覚があったようで、妙に市民権を得てしまった。
どちらが解説者なのか、わからなくなってしまった。私の言ってることが理解されないことに、本質的な価値があったのに。
そんなことを考えていたら、あっという間に終電がくるのだ。東京はみんなをシンデレラにするのね。