根が深い。

自己愛を手なずけたい人へ。

恋愛におけるリーズナビリティと婚活

以前に婚活について書き捨てた笑けど、はたと読み返すとなかなかに酷い内容で、やはり人のために書くとロクナコトガナイ。その割にまま多くの人に読まれているそうで、ちょっとアレなので、朝の15分でリトライする。

 

全ての行動には目的がある。行動の先に目指すものがある。なにかをゲインするリーズンがある。

これをやれば、何かをゲインできる。ゆえに行動する。

この構造式の論理性の高さがリーズナビリティ。

 

恋は盲目とかいいますが、おそらく盲目に見える人というのは、周囲に理解されるほどの論理性がない。リーズナビリティが乏しい。説明がつかない側面がある。それでよし、とするのである。幸せならよい。

 

婚活はどうか。恋愛と結婚を並列するのは気持ち悪いけど、わかりやすく比べると結婚にはリーズナビリティが求められる傾向があるようにおもう。結婚、つまり人生の大きなディシジョン。

 

ディシジョンと言ったのは、決断と判断があるということで、人によっては結婚すると決断する人と、結婚すると判断する人がいるだろうと言いたいから。

 

A or Not-Aのどちらかのボタンを押さないといけないとき、それを断つと呼ぶとすると、必要な情報を集めたリーズナビリティの高い状態で断つことを判断と呼び、一方"決め"で断つことを決断と呼ぶ。決断するときって、独特の高揚感と覚悟が両立するよね。

 

リーズナビリティなディシジョンすなわち判断と、高揚感・覚悟を込めた決断を複雑に織り交ぜながら、人は生きてるのだと思うけれど、

自分は決断モードに入っているのに、意識した相手が判断モード・リーズナビリティを発動しているとき、私たちは世知辛さを感じるのだろう。

 

リーズナビリティ・世知辛さと、高揚感・覚悟のはざまで苦しむであろうことが予測されるセンシティブな方には婚活をお勧めしない。