「お風呂に入らない」というオマジナイじゃよ。
読んだ。これはかなりオススメ。私の大好きな「人生の軸」系ではないけれど(笑)
先日、過去のブログを読み返した。同じようなことばかり書いているのだが、過去の自分に少し救われる。落胆してた頃の記録も、今の自分に勇気をくれる。この記録も、そうなることを願う。
ここまで書いたのが4/6だった。続きはタイミングを逃して書けていなかったのだけど、先日、知り合いとの話の中でこの本を紹介した。
自分の心を救済してくれるて行動や思考回路。私が私を受け入れられるオマジナイ=コーピングを開発し、その心地よさを自己否定する要因を、冷静に見つめていく。
ハーゲンダッツを買って食べる
海まで行って写真を撮る
鈍行の旅に出る
隣町のアダルトショップでTENGAを買う
昔のアルバムを開く
YouTubeで放送事故集を見てポテチを食べる
ランニングする
ブログに思いをぶちまける
ネカフェにこもる
親に感謝する
ナンプレをする
ヨーロッパに旅にでる
旅行雑誌を読む
旅行会社のパンフレットを読む
大切な人に会う
大切な人に手紙をかく
大切な人に想いを馳せる
お風呂に浸かってボーッとする
自分が心地よくなるものを挙げて、それの心の救済力、経済的負担、身体的負担を評価していく。
キーワードは、継続可能性、サステナビリティである。心も身体も財布も。
ハーゲンダッツを食べるのは救済力は高いけど、庶民が毎日続けるには、身体的・経済的な負担がある。そんな風に後からやってくる、太っちゃう…贅沢しちゃった…という自己否定を整理していくために、あらかじめ評価を下しておいて、「わかっていてやる私」を用意しておく。罪悪感は薄れる。衝動的ではなく、計画的に自分を救済できると、サステナビリティが向上する。
私の場合は、本当に引きこもって居たときは、「風呂に入らない」というコーピングがあった(笑)
風呂になんか入らなくても、自分は存在していいのだと自分を肯定できた。風呂に入らないからこそ、私は今ここに咲いているのではないか。今思えば退廃的すぎる。
たまに、頑張って外出するときにお風呂に入るのが面倒で、一気にヒゲを剃ったりするのも肌が荒れるので嫌だったが、スッキリして久しぶりに余所行きの服を着ると、いつもと違う世界に旅行に来たみたいになる。
お風呂に入らないというコーピングは、身体的な負担も経済的な負担もなかった。
私が私を受け入れられるオマジナイ。それがコーピングだ。
次第に、自分だけのコーピングを考えつくこと自体がコーピングになる。コーピングの本当の狙いはそこにあるんだろう。自分の日々の行動や思考を、自分で受け入れていく健全さを手に入れる。そゆこと。