単語は最後、読み手によって発見され、言葉になる
昔から話が小難しいといわれる。振り返ると、熟語が多いのだ。
大きく育った→成熟した
しっかり考えた→熟考を重ねられた
よそものを嫌う→排他的
こっちのほうが曖昧でなく、わかりやすいと心から思っている。
が、社会人になってから、話していることの意味がわからない。わかりたいが、取り扱いにくく感じると信頼する後輩に教えてもらったことがある。相当にショックであった。
先日、図書館で言語学のコーナーを歩いていると、ある本を見つけた。『「ひらがな」で話す技術』(西任暁子/著)という本。今から読む。
思えば、私の今の気持ち、フィーリング、モヤモヤを的確に表す言葉を探し出せることには、この上ない快楽感がある。
言葉というのは、新しく作ることが難しい。なぜなら、それを聞き手に理解してもらう必要があるという点において、たとえば「月の明るさ」を「サアャカテヒミ」と仮りに私が表現しても100%理解されないように、そこには理解されやすさを抱き合わせる必要がある。「月光明度」などがギリギリであろうか。(ここまでくるとなぜ熟語にこだわるのか、そのメンタリティのほうが気になる)
単語単品の分かりやすさだけではなく、「あいつは、こういう言葉を選びたくなる」という読者側からの歩み寄りがあると思う。
それは書き手にとっての甘えであるとか、そういう話ではなく、やはり太宰には太宰の、バッハにはバッハの筆致があるように、そこには動かし難い「人格」が存在する。
言葉をみつける、探し出す行為とは、単純に新しい言葉を想像したり、覚えたての言葉を使いたがるという意味ではなく、書き手による伝わりやすさの開発と、読み手による人格構築の重なりだと思う。