根が深い。

自己愛を手なずけたい人へ。

ぼんやり、うかうか。そして再帰性。

実家に帰ってきて3日目。積んだ本にも手を付けず、やるべきことも少し放置。まだ怒られまい(笑)

と思って過ごしてたので、今日はそろそろやろうかなとおもう。なにもやらない時間が必要だったのだ。ぼんやりうかうか。すごく天気が良くて気持ちいい。午前中で切り上げて、自転車で出かけよう。今日も外でビールが飲みたい。

 

1月から仕事に行かなくなり、気がつくと3か月。今は、すごく落ち着いている。考え事をする時間だけが、ただ、ある。余計なことも考えてしまう。「書くこと自体」について考えてしまう。

なんで自分の考えを整理するのにブログなの?→日記じゃダメなの?→注目されたいの?→うつを切り口に注目されるって、不謹慎だと思わないの?→うつってタイトルから消そうか?→自分なんかの文章で(精神的な意味で)どこかの誰かと出会えたり、救えたりすることを細やかに願っているのだと思う→自分が元気だ!と書くと、元気じゃない人を焦らせたりさせないか?→自分が購読しているブロガーが元気になっているのは嬉しいじゃないか→ぐるぐる言葉にできないものぐるぐる→書くの面倒くさい→書くことでしか整理できない。→やっぱり自分のために、やりたいことをやろう(今ここ)

 

最近ある本で、「再帰性」という言葉を知った。使われる分野によって、示されるものが異なるのだけど、大きな意味で言うと、「それが、それ自体の根拠に影響を与えること」らしい。説明が難しいので「へー」と思ったものをいくつか紹介する。幾つか、怪しいものもあるけど。

 

・「絵を描いている人の絵」を描く人の絵を・・・・

・「自分はうそつきです」という人は正直者か。

・合わせ鏡

・伝統なので、これからも伝承していく。という伝統。

・「全ての命令に従うな」という命令。

・エクセルの循環関数。

・旅の目的地に着いたが悪天候で絶景が見れなかったら。見れないことも含めて楽しい旅だった。

 

「私は孤独であるという表現」は、誰かに読まれることによって存在するのだろうか。誰にも読まれないとしたら、私の孤独は存在しないんだろうか。誰かに共感される孤独は、孤独と言えるのだろうか。誰かに共感された時に得られる確かな安心感は、孤独であるがゆえに生じるものだろうか。誰も見ていなくても、庭に風が吹いているのかなと思うと、尊いなあ。

 

ぼんやりうかうか。そんなことを考えていたら、何もせず2日くらい経っていた。まあいいか。