根が深い。

自己愛を手なずけたい人へ。

助けること、助けを求めること(追記有)

仕事をやめて辛かったときに私の心を支えてくれた、あるブログ記事を紹介したいです。このブログを読んでくださっている方は、私と同じように心の疲れ、病いを抱えている方や、自分の大切な人のために情報を集めている人など、色々な人がいると思います。そういった方々の参考になればと思っています。(たぶん初めて、読んでいる人を意識して記事を書く!)

 

・まずは、私の話。

(書き始めたら長くなってしまった。飛ばしてもらって大丈夫かも・・・)

何故この記事に出会ったのか。振り返ると、2か月ほど前になります。体感では、半年くらい前に感じますが・・・笑

 

仕事を退職して、漠然と、「今後、どんな態度で生きて行けばいいのか」ということを考えていたころでした。「態度」というのは、そもそも他人に示されるもので、きっと「他人の目」を強く意識していたんだと思う。

 

そして同時に、今年4月に開催されるコンサートに向けて、プロジェクトが本格的に動き始めた頃でした。(昨年末から、私はこのコンサートの運営幹事をやっています)

 

このコンサートは、東日本大震災・熊本大震災の復興を支援するチャリティ目的のコンサートでした。出演者は全員ノーギャラ。全員が自分たちの時間を捻出して、開催にこぎつけるもの。普通の楽しいコンサートとは少し違うメッセージを持つ、私の中で特別に位置付けているコンサートでした。

 

「なぜ、いま私がこのような状況に置かれているのか」

「こんな状態で、コンサートをどうやって行くのか」

「でも、何らかの形で関わりたい」

色々な考えが錯綜し、振り返ると不安定だったなと思います。もちろん、自分なりに考えていたのだけどね。 

日々、自分のこと、コンサートのこと、コンサートにかかわる人たちのこと、被災者のこと。様々なことを考え続け、言葉を探しました。思い浮かべたり、書いたり、口に出したりしながら、私は考えをまとめようと努めました。

 

・助けあうことで、成果を最大化するチームを実現したかった

 

そして、あるブログ記事に再会し、このコンサートのプロジェクト推進のモットーを「支援は余裕のある人がすることだ。余裕がある人が、目的意識をもって支援をする。支援してほしい人は、遠慮なく支援を求める」と定めました。個々人の力には差があります。それをチームの力で、なるべくストレスなく埋めたいと考えたのです。

これは、私が今、日々を過ごすにあたって、強く背中を押してくれるモットーになりました。あるときは他人に助けを求め、あるときは他人を助ける余裕のない自分を認め、またあるときは他人のフォローに回る。

それこそが、私がもっとも理想とする生き方の一つだと知りました。

 

・皆さんに紹介したい記事はこちら。 

 

前置きが長くなりました。哲学者、内田樹さんのブログ記事をご紹介します。

『七人の侍』の組織論 (内田樹の研究室)

 

好きな箇所を抜粋します。

どういうタイプの共同体が歴史の風雪に耐えて生き延びることができるか。これはなかなか興味深い問いである。

 

前に、住宅についてのシンポジウムの席で、「コレクティブ・ハウス」を実践している人から質問があった。

その人は20世帯くらいで住まいをシェアしている。子どものいる若い夫婦同士はお互いに育児を支援し合って、とても助かるのだが、高齢者の夫婦などはいずれこちらが介護せねばならず、若い人たちは「他人に介護してもらうためにコレクティブハウスに参加したのではないか・・・」という猜疑のまなざしで老人たちを見つめている、という話をうかがった。

 

どうすればこの共同体を継続できるのでしょうというお訊ねだったので、「残念ながら、そういう共同体は継続できません」とお答えした。

 

一体、どういうことか?

あらゆる共同体では「オーバーアチーブする人」と「アンダーアチーブする人」がいる。必ずいる。全員が標準的なアチーブメントをする集団などというものは存在しない。
(中略)
あらゆる集団はその成員の標準的なアチーブメントに及ばない「マイナーメンバー」を含んでいる。幼児や老人や病人や障害者は集団内では支援を与えることより、支援を受けることの方が多い。

けれども、これらの「マイナーメンバー」を支援するときに、「自分は損をしている」というふうに考える人間には共同体に参加する資格がない。
あらゆる人間はかつて幼児であり、いずれ老人になり、高い確率で病人となり、心身に傷を負う。だから、集団のすべての構成員は時間差をともなった「私の変容態」である。

それゆえに集団において他者を支援するということは、「そうであった私、そうなるはずの私、そうであったかもしれない私」を支援することに他ならない。過去の自分、未来の自分、多元宇宙における自分を支援できることを喜びとすること。そのような想像力を用いることのできない人間には共同体を形成することはできない。

 

では、どうすればよいのか。

集団成員のうちの相対的に有力なものに優先的に資源が配分されるような「弱肉強食」共同体は長くは続かない(いずれお互いの喉笛を掻き切りあうようになる)。
集団成員のうちのヴォリュームゾーンである「標準的な能力をもつ成員」の利便を最優先に配慮する「平凡」共同体も、やはり長くは続かない(全員が均質化・規格化して多様性を失ったシステムは環境変化に適応できない)。
もっとも耐性の強い共同体とは、「成員中のもっとも弱いもの」を育て、癒し、支援することを目的とする共同体である。
そういう共同体がいちばんタフで、いちばんパフォーマンスが高い。
これは私の経験的確信である。

 

それゆえ、組織はそのパフォーマンスを上げようと思ったら、成員中に「非力なもの」を意図的に組み込み、それを全員が育て、癒し、支援するという力動的なかたちで編成されるべきなのである。その好個の事例が『七人の侍』における勝四郎の果たした役割である。 

 

七人の侍』のセリフを交えた、さらに詳しい話は、ブログ本文で見ていただきたい。上の文章が難しすぎたという人も、読んでもらえれば分かりやすいと思います。

私はこれを最後まで読んで、「自分は生きていていいんだよ」と、私は背中を押してもらいましたし、「どこへ行っても同じだよ」という呪縛から逃れることがきました。もちろん全ての人にとって、そういう効果があると約束できるわけではないのだけど。

『七人の侍』の組織論 (内田樹の研究室)

 

あー読む人を意識して文章かくと、なんだか着陸しなくなる。ふぅ。

 

(追記)

弱者を許容しない共同体が、かつて日本にはあったのではと思いました。それは「姥捨て山」というシステムを導入していた集落です。これは、全ての共同体構成員が、「自分が捨てられるリスクを背負うこと」に全員が合意したときのみ、運用可能となるのでしょう。ふと思ったので、追記でした。