キリスト教とわたし
昔ゴスペルをやっていたので、キリスト教のことを知る機会が多くありました。
といっても、日曜礼拝にいくのではなく、週に1回ゴスペルの練習の時に歌詞を通じてキリスト教の考え方を教えてもらうというもの。自分的には、宗教をやりに行っているというより、「歌いに行ってる」という感覚でした。
その後、趣味でコーラスを始めて、たくさんの宗教音楽を歌う機会を頂きました。今日は、A・ロッティ(Antonio Lotti)のCrucifixus(クルツィフィクソス)を聴きながら本を読んでいます。
Crucifixus (Lotti) - The Cambridge Singers
Crucifixusとは十字架、磔の刑、クロスのことです。この曲の冒頭が特に好きです。
イエス・キリストの受けた苦しみと死の直前に見える走馬灯が込められているように感じます。そして、終盤に向けての解結で救いへの感謝が込められているように感じます。
気が向いたので、この曲と、キリストの最期についてご紹介します。(ちゃんと聖書を勉強したわけでもないので、そこだけご了承いただきたい)
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<歌詞(訳)>
Crucifixus etiam pro nobis,
sub Pontio Pilato;
passus et sepultus et sepultus est
主は十字架刑に処せられた、われらのために
ポンテオ・ピラトの名の下で
苦しみを受け、そして葬られた
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キリスト教では、キリストが葬られたことで、人間が生まれながらにして背負っている罪をすべて埋め合わせたと考えられています。クリスチャン的には「罪を贖(あがな)った」と言われます。(無かったことにしたわけじゃなくて、)弁償したという意味です。
昔、キリストが弟子に裏切られて捕縛され、処刑され、3日後に蘇るまでを描いた映画『The Passion of the Christ(邦題:パッション)』が公開された時に、これについて細かく説明していたテレビ番組の内容が衝撃的で、今でも覚えています。BSでやってた気がする。キリストが受けた刑は非常に激しかったと言われています。
鞭打ち。皮の紐に動物のとがった骨をつけた鞭で何度も背中を撃たれました。背中の皮がはがれ、背骨がむき出しになります。そして重たい十字架を背負わされ、処刑場となるゴルゴダの丘までの道のりを歩かされます。着くと両手・両足に杭を打たれ、十字架に吊らされます。自重により肩は脱臼し、首が締まり、痛みは増していきます。そして処刑人により脇腹を槍で刺され、死ぬまで監視されたと言われています。あー書いてて、つらくなってきました。
曲中に登場する固有名詞ポンテオ・ピラトというのは、キリストを尋問し、処刑に大きく関与した総督です。私は、善悪を抜きにした文学的な意味で彼のことが好きです。
Lottiは不協和音と解結によって、キリストの受難と贖われた原罪を巧みに表現しています。十字架が何重にもかさなって、立体的に見えてきます。時間・空間を越えて、十字架が大きな意味を持って語り掛けてくるように感じるのです。
聴いていると、きゅーっと胸が痛くなり、ふわーっと和らぎ、心が揺さぶられます。名曲だなぁ。