怒ること、狂うことについて
私は観念的なことを考えているときに、ブログを書きたくなるみたい。今日は、『12人のカウンセラーが語る12人の物語』を途中まで読んだ。
実在のカウンセラーが実体験を元に執筆したフィクション小説という、非常に実験的な内容。全てカウンセラーの目線で描かれており、クライアントの内部を紐解いていく思考の過程が描かれています。
第2章「殺意の自覚」が自分と重なってヒリヒリした。
もしかすると彼女は自分の中の激しい怒りに驚き、それほど激しい敵意を抱いている自分の部分を認めがたく感じ、認めがたい自分の部分との衝撃的な出会いから抑うつ的になっているのかもしれません。(略)もしかすると彼女は、自分が敏感すぎるのどと考えることによって、自分の中の怒りを何とかなだめようとしていたのかもしれません。
会社を休職しているとき、私に責め苦を与えた奴らをめちゃくちゃにしてやりたい。会社ごと潰してやりたい。仕返しをしたい。
そういう気持ちを何人かに話したことがあるが、みんなが「そんなことをして何になるの?」と言った。はい、そうです。
無駄だと分かっていたから抑え込んでいたんだよ。「これから先ずっと、自分が抱く全ての憎しみと怒りは無視される。他人はもちろん自分にすらも無視される」という呪縛にかかっている自分が居たのです。
「このままだと私、誰かを殺すかも」という告白のほうが「このままだと私、死にたくなるかも」よりもストレスがあるよなー。
ニュースに出てくる殺人犯に向けられる世の中の拒絶感を否定はしないし、殺人を容認するつもりはない。それはそれとして、仮に自分の中に芽生えた殺意や狂気を処理できないときに、誰かに打ち明けられることは大切なことだと思う。
怒りに呑み込まれてしまうんじゃないか。という不安もあるけれど、それを誰かに打ち明けたり、このブログに書いたりしながら、1つずつ整理していけたらなあと思っている。
これから先も私を怒らせる何かは現れるだろう。自分の正気を保てるように、1つ1つやっていこう。
最後に第1章「生きのびるための死」から印象的な文章をご紹介します。
私たちは、自分の住む世界がなまのまま襲ってこないように自分という主体を守っている。(略)なまのままの世界に晒されることの恐怖に人は普通耐えられない。名前をつけ、その言葉の意味が誰かと共有できると信じることによって、かろうじて私たちは世界をコントロールできる自分を担保するのだ。