根が深い。

自己愛を手なずけたい人へ。

意味を見出す

職場のおじさんが掃除は心を磨いているのだと大きな声で説教しており、席替えで向かいの席に座らされている先輩が不憫でならない。

私はそんな話を楽しそうに聞く器を持っていない。

 

つまらないことをやってたり、暇な時間があるから、悩み始めるという話は往々にしてある。

悩み全てが「そんなことを考える余裕があるから」と一蹴することまではできないにしても。

 

つまらないことをやっていると、考える余裕が生まれる。次第に自分のやっていることに意味を与え始める。

確実にしかしゆっくりと向かってくる死という不安に意味を与え始める。

 

わからないこと、つまらないことに自分なりの意味を与えて自分の一部として引き受けることを悟りと呼ぶのではないだろうか。

 

だとすれば、人から「掃除をして悟れ」と強いられることは悟りの姿勢、つまり、自発的に見い出す姿勢から最も遠いことになるだろう。

 

職場の、朝の掃除時間にそんなことを考えてた。

いつでも誰かが

仕事でミスをした人を責めてしまった。いや仕事のミスは適切に指導して、修正してもらい、同じことが起こらないようにしていく。同じ組織の人間としてそれは相互の責任であると。そゆのは分かってる。

 

その人は職場での評価が低くて、私以外の全員から見放されてしまっている人だった。私はその人の自尊心が削がれていることに気づいて、ずっと良い距離を保ちながら自尊心の回復→スキル向上の意志確立を期待していた。

 

責めてしまったすぐ後、謝って今回の話を整理し、その人にとってなにが課題なのか。自分が課題解決に貢献したいことを誠意を込めてお伝えしようと思った。しかしその人は「あ、今忙しいので後にしてください」と言われてしまった。

 

残念ながら、私はその人とトレーナー・トレーニーの関係には無いのだ。当然ながら、本人は自分の意志で、私から何かを教わろうと決めたことなどないし。私もただのお節介なのだ。

タイミングや境遇が違えば、そういう関係になり得たかもしれないが、少なくとも今はちがう。違うのだ。

 

そんな厳然たる事実があり、私は二重で自分の底の浅さ。カッとなってしまう自分の未熟さと、人に期待しすぎる自分の楽観性の2つに、落胆した。

 

 

しかし責めてしまったときの、その人の目は絶望だった。思考が止まっていた。今この時がすぎるのを待っている目だった。

 

いつでも誰かが、誰かの正義で誰かを泣かせでいるんじゃないだろうか。

ストレスの行方

ストレスのない世界なんて無いよねって思ってて、同じ境遇にあわされても、昨日の私なら耐えられなかったかもしれないけど今日の私なら持ちこたえられるかもしれない。そや意味でのタイミングも含めて、ストレスの無い世界なんて無いのだと思う。

 

ストレスに強い私。感受性の調整や、「感受したものに動じない私」を維持するという理想像は、実現難易度が高いなと思った。

私を認知する私、のニュートラルさを担保するものが無いから。

 

だとすれば、受けたストレスを打ち消す快楽を持っておくほうが、楽やなと。リセットするボタンが沢山あって、辛かったら色々なボタンを押す。

私の感受性に合わせて、押しまくる。ストレスそのものを無かったことにする方が根本的な感じがして不安もないけど、実はこっちの一見「場しのぎ」的なものを継続していくほうがトータルの安定性が高いのかなって。

やりたいこと

土日はフェリーに乗って島へ行った。海に行った。島にあるアートスタジオをたくさん巡って、美術館も2ついった。安藤忠雄、モネ、タレル、マリア。観光の外国人の方に道を聞かれ、彼女のいる手前がんばる他なかったのも思い出。

 

地元へ帰るとき無収入で滞納していた医療保険はいつの間にか強制解約されており、復活申請をしたら鬱を理由に断られました。いいよいいよ。

 

やりたいことに改めて挑戦してみようかなと思う今日この頃。地続きの私が、自分自身を損なうことなく次へ行こうとしています。保険は失ったけど。

 

やりたいことが見えてきました。やったほうが良いことじゃなくて、やりたいこと。

ここに表明するときは、新しいブログを始めてみようかなと思います。こちらの更新頻度はさらに下がることでしょう。

 

なんと有難いことに読書がついているということで、書くことを読書に意味付けされ始めたら書きたいことも無いくせにと自分に嫌気がさして筆を置きますが、そうもならないうちは書いていようと思います。書かれたものに意味付けをしてくださる方がいるということは、これまた有難いことですね。

 

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遠い過去

東京の生活をやめて、地元に帰るまでの1ヶ月間。帰って来てからの数ヶ月間は、自分が生きることだけを考えてだと思う。それで良かったと思う。今までの全てを失ってもなんとも思わなかったと思う。今からまた生き直そうと思ってた。そう思えたから、今ここまで生きてるんだと思う。

 

帰る前までのことを昔と呼ぶとすると、昔はよく連絡をとっていた人のことを最近ふと思い出す。

いっぱい飲んだ人、めっちゃ喧嘩した人、男女のスッタモンダあった人。

 

この帰る期間にも連絡をとっていた人がほんの少しだけいて、この人たちが自分の連続性の保証人なのかなと思い。

私自身は自分の連続性を意識すると、未来が縛られてしまうようで生きづらくなるので、滲み出てくるものを誰かが感じ取るとして、それが私の連続性の証になるのだと思う。

自分の中にはある程度の一貫性があると信じたい。らしさを見出していたいという願望を他人に託したくなる。しかしその観察を強いることはできない。

 

今を生きれば良いと思ってた未来志向の私と、私の歴史を見出してほしいと願う私が、最近交信しています。共存してほしい。