焦点を変える
焦点がグワングワン変わった。
あー絶対やめてやる。って思ったし、
もう少し頑張ってみようか、と思ったし、
再びクソッタレボケ!と思った。
私の中には、揺るがし難い自分がいるのだ。
誰にも揺るがしようのない自分。
サラリーマンたるもの、椅子は前半分に腰かけなさいと言われようが。
あなたは私がいない時だけ仕事をサボってると聞いたんだけど本当かしらと聞かれようが。
必要以上に冷たくキツい口調でないと他人とコミュニケーションできないディグニティ依存のクソババアに説教されようが。
はい!すいません!はい!はい!はい!と頭を下げて、周りに白い目で見られようが、ファックオフ。
昼休みにアートプロジェクトの本を読んだ。
「アートって、今あるところから少し違うところに行くからこそ面白いわけじゃないですか」と書いてある。
「だから心地よいものだけを並べるんじゃなくて、少し気持ち悪いものやキワドイものがないといけない。」
そうか。約束された結果の対価としてお金を払って享受するのではなく、わからないけど遭遇して答えが出ないものを抱え込まされる感覚がアートの価値なんだな。
読んでる本のそこでのトピックは税金とアートで、その投資効果をどうやって計測するの?ってものだったんですが。そこで読み止まってしまった。
「キワドイものが、税金でまかなわれてるイベントに登場して許してもらえるかなーって難しさはありますよね」
そうか。私は、ずっとこれを抱えてたんだ。答えはない。
逆もある。
私は、何かきれいなものを期待しているのではないか。私は、何とも交わらない、心地よいものだけを並べた変化のない環境で働くことを求めているんだろうか。
そういう問いを突きつけられると、答えは迷わずyesである。今の仕事にやる気も情熱もない。全くない。誤解しないでくれ。
今の仕事をしていて、アート性が私に話しかけてくれることを1ミリも予感しないし、期待しない。
私が「いかに世界を見つめるか」という限りにおいて、そこにアート性が創造されるのであれば、私はそれを職場に設けない。設けないぜ。
アートは私を変えるのではない。
変わりたいからアートが生まれるんだろう。
なんの話だっけ。
悩みごと
このブログはもともと鬱で無職のおっちゃんだった私が始めたものです。繊細の極みだった頃、読みたくない文章がありました。これから書くことはそれに入るかもしれない。いや間違いなくはいる。読みたくない人は嫌な予感がしたら、戻ってください。せめて読んだ後味だけは悪くないように仕上げてみます。無論、誰かを怒らせたり傷つけたりする意図は毛頭ございません。
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職場のベテランが立て続けに2枚やめるので、毎週採用の面接をやってる。人事のおっさんは声がでかくて品がない。
嫌な会話が耳に飛び込んできた。
「(面接を終えて戻ってきて)全然あかんわ。精神疾患で今も投薬中。月1回は通院させてくださいだって。そんなん聞かされたら取れるわけねえやん。声も上ずっとって、ソワソワしてから。」
「そんなん言って採用してくれる会社なんか、あるわけねえがなあ。あはは。」
こんな声が聞こえて来て思わず、思考が停止してしまった。私は、働かずにいた5ヶ月間を父の介護と説明した。嘘ではない(笑)
働き始めてから、何か話の流れで「かつて鬱だった」という話はしても良いかなくらいに思っていた(いる)し、面接で病歴を話すことになったとしてそれで落とされる職場には行かなくていいと思っていた。
でも実際に、目の当たりにすると、まあまあ、いやかなりショック。
冷静に考えると、月1回やすめない職場なんて、ワンオペ牛丼店の店長にでもならない限りは、普通は有り得ないわけですが、やはり心配で質問したのでしょう。
面接する側も、このひとソワソワしてて印象悪いなあと思っていたところに、精神疾患の話が登場したので、やっぱりか!となったのかな。
双方の気持ちを察することは容易ですが、そんなことを職場で大声で話してしまう品格のなさに、驚かされたわけです。
自分の周りにそういう人がいないのかしら。ましてや、自分もそうなる可能性があるなんて1ミリも想像できないのだろうなあ。私もそうだった。
いや逆に、普段からとてつもない孤独を抱えていて、精神疾患の人と対峙すると自分の中の弱さを見ているような気持ちになるんだろうか。だとしたら、それを誰かに声高に聞いてもらうことで自分を保っていると考えることもできるのか。
朝からこんなツマラナイことで悶々としてしまつまて、いいや。この仕事、やめてしまおうと思った。他にも、小さいことが重なり、あ!?!?となってしまった。
何かを期待しているから、そうなるんだなと思う。責任あるポストの人には、品格が備わっていてほしいと期待している。そういうことなんだな、俺。
また別の職場に行っても、やっぱり何かを期待する限りは同じように悶々とするんだろうな。期待しすぎなんだな。この期待を、良い感情に切り替えられたら良いのだろう。まあ気長に。
でも、やはり期待をやめられないなら、仕事をやめよう。期待してしまうからこの不倫を止めよう。みたいな感じって、こんな感じなのかな。違うかな。知らんけど。
最低。
最低に嫌なことがあった。今日は何に集中しようかな。あーもやもやする。ファック。
まあいっか感
家にいると、もう!ここにはテレビのリモコン置かないでよ。とか、朝のカフェオレはそのグラスじゃないのー。とか、よくわからないことを指摘される。
そんなのがイチイチ気になっていたら共同生活ってできないなぁ、というのが所感です。テレビのリモコンの位置を決めたからといって、私の人生は狂わないのである。なので、まいっか。的な感覚である。
そして最近では共通の嫌いな奴をつくって、定期的に嫌いなポイントを共有しておくと、共同体としてバランスが取れることがわかった。いやそれ以外に楽しいことも話してますけどね。共通の敵の話の方が熱というか短期的にドライブがかかりますよね。んで話のオチは必ず、あいつとは関わらないようにしよう。である。これで一家は安泰。
ただし、共感できないものには安易に同調せず、へー!で?である。安直な迎合は不要である。
そんなわけで、遠距離恋愛している彼女がある試験に向けて勉強しているのですが、今日一次が終わったそうで。とにかく今日は美味いビールを飲んでほしい。
先週はよくわからない怒りをブツけられてしまったが、ポイントはもちろん、まいっか感である。そもそも怒りの正体が、取るに足らないものなのだ。癇癪なのだから、嵐が過ぎ去るのを待つばかりである。止まない雨はないのである。
僕だってたくさん世話になったのだから。このくらいは呼吸をするように受け止められるのである。いや呼吸はウソか。
自分に心に効く薬を自分で作る
自分のかいた文章に救われることがある。
前向きな文章は、「置く環境や、考え方がかわれば、こんなに落ち着けるのね」ってなるし、荒れてる文章は「こんなこあったけど今生きてるよ」とか「荒れすぎww辛かったねよしよし」ってなる。
しかしまあ。ほぼ毎日書いてるもんだから、読みたいものが見つからない。なにを読みたいのか分からないのに、読みたいものを自分は書いているだろうという変な確信があるのだ。
だから見つからなくてもいいし、見つけるために読み漁って違う文章に出会ってもいい。見つかったら、意外とどうでもいいこと書いてたりして、自分のなかで答えが浮き彫りになる。だからつまりどうなってもいい。
検索機能が低いから、自分で自分を立て直せるメカニズムになった。これって、新しいトリビア二なりませんか?
6年ぶりの地元生活で新たにわかったこと
5ヶ月くらいニートやって、仕事辞める前のお金で行きたい場所に行って、色々な人に助けてもらいながら過ごす生活だったけど、先月からローカル社会と交わりはじめ、地に足が着いてる感っていうか、「地繋がり感」を感じてる。
田舎の地元って、よくわかんないタイミングで知り合いに出会うことがあって、大学時代とかに、ワンナイトラブした翌朝7時に女子と2人で地元の大きな駅の近くを歩いてると、中学の時のあまり話したことない同級生とすれ違ったりする。
今だって別になにもないのに、女の子と歩くのドキドキするよ。え?自意識過剰ですか?そうですか。
なんなのよこの緊張感。といいつつも、ローカル特有のお忍びスキルって、あると思うんですよね。これが東京だったら、なにも心配しなくていいのにって思いますよね。
むかし、スパ!の記事で、出張サラリーマンは事前に出会い系サイトで出張先の女性にアポをとっておいて不倫する。みたいなのがあって、ローカル女性は地元友人とのエンカウントを気にするのでホテルで飲み直そうっていえば簡単に行ける。みたいな、下世話な。いやはや下世話な。下世話オブザイヤー2017に堂々とノミネートできるくらい下世話な話を妙に納得して読んだもんです。
地に足が着くって、こういうことなのかなもしかして。