根が深い。

自己愛を手なずけたい人へ。

自炊生活5ヶ月続けてわかったこと

実家で暮らし始めて、生まれて初めて他人のために料理を作ってる。晩ご飯。

 

自分のための自炊だって、「ご飯を大量に炊いて冷凍し、大盛りレトルトカレーを煮沸して食べる」くらいだったので、

今みたいに煮物や焼き魚などリアルガチの料理をやることになるなんて。思ってもみなかった。

 

料理を始めてよかったことは、いくつかあって、

 

まず一つ目は集中できること。初心者なので、30分くらいの料理を1時間くらい掛けないと作れない。黙々と作業に励める時間は、後から考えるとスゴく意味があった。脱・邪念。特に何にも意欲のなかった頃には、よかった。

くちうるさくて、病気をする前は家で一番料理がうまかった父も、頼まない限りは口を挟んでこない。なぜなら彼は、習慣であるナンプレに夢中だからである。

 

二つ目は、出来たものをしっかりと自分の口で味わって食べるようになったこと。やったことがすぐに結果として味わえるのは、今考えるとすごい大切なことだった。

たまに疲れてスーパーの惣菜やコンビニ弁当を食べるとき、素材ではなく味付けやタレを食べてるだけだと気づいて、自然と自分は味付けやタレに頼らずやりたいと思うようになった。

これが、マインドフルネス・イーティングみたいなものだと気づいたのは、つい最近で、なるほど、と思った。

 

先週から週5日フルタイムで働いているけど、黙々と料理はやっている。素材だけが届く通販を利用していて、献立を考えるストレスや、余り物を使うストレスもないのが、初心者の私にはちょうどよかったのだろう。

一人暮らしだったら、ここまでちゃんとやらないだろうなあ。

季節の変わり目に風邪ひく

年間で四回は風邪をひく。だいたい冷房を入れっぱなしにしたり、使うべき布団が薄すぎたりする。

 

今朝から鼻水が少しズルズル。のどがゴリゴリ。昼飯はセルフうどんで汗をかいた。熱いものを食べてかく汗は、日差しに照りつけられてかく汗と違って気持ちいい。じっとり。

 

我が故郷の夏は、梅雨期もあまり雨が降らず、熱い。県北へ行くと、サマーウォーズに出てくる自然豊かな日本の原風景が広がっている。

 

週末、鈍行でどこか旅に出たいなあ。

私がコーチングを学ぶ理由

今でもあまり自覚してないのだけど、悩みを相談するのが苦手だった。何をやればいいのか、頭でわかっているので、相談する必要がない。と早々に結論づけているのだとおもう。

 

今になってわかるが、相談には、判然としない気持ちにムリやりな論理を当てはめて認知を歪ませるのではなく、そのモヤモヤを自分の中で飼いならしていく、モヤモヤさせておく猶予期間を与える効用がある。

それはある種の愚痴のようなもので、解決せずして折り合いをつけていく。長い目で処理していく。局面だけを切り取ると、ただ現状を打破せず愚痴っているように見える。そんな自分が嫌だったのだとおもう。

でも、判然としない気持ちと同居していくことが、心の弾力や耐久性を上げるんだと、最近知った。

 

病院に通い、カウンセリングを受け始めると、予想をこえて効果があった。私は自分の考えを整理して言葉で話す力が高いらしい。

 

職場の自分を嫌っている上司が、どんな被害者意識を心の中で燃やしながら、私を憎んでいるのか。一体どんな裏切られ方をすれば、こんなにも他人を信じられなくなるのか。なんてことを、憐れみと怒りを込めて、ずっと考えていた。そうすることで自分を納得させていた。

病院のカウンセラーさんは、頭でっかちになった私の気持ちをほぐして、解放してくれた。

 

しかしカウンセリングが続き慣れてくると、次は、この話を聞いてくれるカウンセラーが何を考えているのかが気になり始めた。

カウンセリングが少し辛かった。頭良い子ちゃんにしていないと、いけないような気がしてきた。カウンセラーによる心理学講座を受けにきているような心持ちだった。

 

自然と私は、カウンセリングを学ぶようになった。

カウンセリングをする側に強く興味を持ったきっかけは、スクールカウンセラーが執筆した小説。症例集ではなくフィクションにすることで、守秘義務をクリアしつつ、重要なエッセンスを具体的に表現した実験的な小説だった。とても、生々しく、面白かった。

 

私は職場を離れたおかげで徐々に自分の気持ちに光を当てることができるようになり、カウンセリングの中でも、セルフカウンセリングが向いていることに気づいた。共感的姿勢、肯定的姿勢を簡単に構築できる。

 

コーピングを知って後ろめたさにケリをつけ、フォーカシングを知って判然としない感情を尊重する作法を学んだ。

 

今はアドラー心理学に基づくコーチングメソッドを独学で学んでいる。誰かと話しながら学ぶことを推奨されているメソッドだが、そこまでのアレじゃない。

アドラー心理学は難しいのだけど、しかし、誰しもが自分の望む方へ向かえばよいというアドラー心理学の基本理念が大好きだ。

 

誰かのコーチになりたいわけではない。

私を救うためにコーチングを学んでいる。

はっきり言って

もしかして…と思ってたことだけど、親が一番ストレスの原因だと思う。接してる時間長いから、職場のこととか、これからのこととか、気になってイライラしてるところに、崩壊の決定打をキメにくるのが、だいたい親。単純にタイミングが悪い。

 

今日も病院行く予定だったけど、今まで寝ててダメだった。今まで寝てたのは、昨晩朝まで飲んでたからなので200%私が悪いんだけどさあ。責めたいなら責めろや、って話なんだけどさーあ。

そうしなきゃ保てない、ショボいやつってことなんだよ。なんとでも言え。ワシはこんな自分が嫌いじゃないぞ。

 

まともで正しいことを言う、他罰的な性格なので、本当につらいからやめて。出来が悪いのは分かってますから、って話です。今日は、こんな気分でいさせてくれや。明日は明日考えるから。

みねこ!

朝ドラを見たら家を出る、というのがルーティンなのだけど、朝ドラではヒロインが東京で働き始めている。てんてこ舞いのようだ。

 

主人公と私はキャラクターも経験も環境も違うものではあるのだけど、自分と近い人がそばにいるのは嬉しいもんです。

 

みねこ、がんばれ。

「お風呂に入らない」というオマジナイじゃよ。

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読んだ。これはかなりオススメ。私の大好きな「人生の軸」系ではないけれど(笑)

 

先日、過去のブログを読み返した。同じようなことばかり書いているのだが、過去の自分に少し救われる。落胆してた頃の記録も、今の自分に勇気をくれる。この記録も、そうなることを願う。

 

ここまで書いたのが4/6だった。続きはタイミングを逃して書けていなかったのだけど、先日、知り合いとの話の中でこの本を紹介した。 

 

自分の心を救済してくれるて行動や思考回路。私が私を受け入れられるオマジナイ=コーピングを開発し、その心地よさを自己否定する要因を、冷静に見つめていく。

 

ハーゲンダッツを買って食べる

一人カラオケ

海まで行って写真を撮る

鈍行の旅に出る

隣町のアダルトショップでTENGAを買う

昔のアルバムを開く

YouTubeで放送事故集を見てポテチを食べる

ランニングする

ブログに思いをぶちまける

ネカフェにこもる

親に感謝する

ナンプレをする

ヨーロッパに旅にでる

旅行雑誌を読む

旅行会社のパンフレットを読む

大切な人に会う

大切な人に手紙をかく

大切な人に想いを馳せる

お風呂に浸かってボーッとする

 

自分が心地よくなるものを挙げて、それの心の救済力、経済的負担、身体的負担を評価していく。

 

キーワードは、継続可能性、サステナビリティである。心も身体も財布も。

ハーゲンダッツを食べるのは救済力は高いけど、庶民が毎日続けるには、身体的・経済的な負担がある。そんな風に後からやってくる、太っちゃう…贅沢しちゃった…という自己否定を整理していくために、あらかじめ評価を下しておいて、「わかっていてやる私」を用意しておく。罪悪感は薄れる。衝動的ではなく、計画的に自分を救済できると、サステナビリティが向上する。

 

私の場合は、本当に引きこもって居たときは、「風呂に入らない」というコーピングがあった(笑)

風呂になんか入らなくても、自分は存在していいのだと自分を肯定できた。風呂に入らないからこそ、私は今ここに咲いているのではないか。今思えば退廃的すぎる。

たまに、頑張って外出するときにお風呂に入るのが面倒で、一気にヒゲを剃ったりするのも肌が荒れるので嫌だったが、スッキリして久しぶりに余所行きの服を着ると、いつもと違う世界に旅行に来たみたいになる。

お風呂に入らないというコーピングは、身体的な負担も経済的な負担もなかった。

私が私を受け入れられるオマジナイ。それがコーピングだ。

 

次第に、自分だけのコーピングを考えつくこと自体がコーピングになる。コーピングの本当の狙いはそこにあるんだろう。自分の日々の行動や思考を、自分で受け入れていく健全さを手に入れる。そゆこと。

オツボネサマ

新しい職場。今日は勤務2日目でございました。

 

「実は契約社員の中にオツボネサマがいるのだ」と、勤務初日に人事の人に教わっていた。

これをコッソリ教えてもらえるということは、あなたが壊れないように守りますよ。という意思表示だな。もしくは事態はすでに安定に向かっている証だと捉えた。

うむうむ。健全だ。

 

話を聞いて行くと、案の定オツボネサマは今週が最終出社らしい。なるほど干されたのか。

 

というわけで今日、そのオツボネ大明神とご対面。私と話すときは、基本物腰が柔らかい。たまに私を蹂躙しようと、話を遮ったり、まくし立てたりするので、「へーへー!」「なーるほど!ありがとうございます!」の2フレーズを駆使して、ヤツの気を落ち着ける。

 

私に対しては、まあその程度なのだが、他の女性には厳しい。厳しいというか、嫌なヤツだ。いや、はっきり言ってクソだ。

常に怒っている。優秀で話も分かりやすいのに、息を吸うように怒って、息を吐くように後輩をなじっている。他罰的な人間が1人いると、他罰性こそが優秀さのバロメーターみたいになってしまう。まさに毒。

毒なのだ。除草剤だ。彼女が今週で居なくならないとしたら、私は毒を掛けられている皆さんを救うことができただろうか。ため息。

 

仕事が出来る人なのに、もったいない。多分、もっと認めて欲しいのかな。現状、満たされないものがあるんだろうなあ。自分で自分を褒められない人ってことか。そういう時期あるよね。

 

オツボネサマは、とても社歴の長い契約社員らしく、話を聞く限りでは黎明期を支えたらしい。黎明期の話をずっとするのだ。黎明期。黎明期って言いたいだけだろおまえ。

何はともあれ、組織そのものが成長し、変化したことで結果的に、彼女を受け入られられない風土になったということだ。黎明期からの転換によくある話の流れだと思わんかね?

 

残念ながら、構成員の器と、組織の拡大は、正比例しない。

 

しかし組織の成長は、紛れもなく人の器の成長を要求する。(要求に応えられなくても組織はある程度のところまで伸びていくだろう)

 

残念ながら(?)彼女は器として伸びることはなく、むしろ居場所を求めて小さく振る舞ってしまい、最終的に後から入社した後輩社員に人事へとリークされ、淘汰されて行くようだ。今までも多くの人を辞めさせてきたらしい。同じような現場をたくさん見てきたので、言葉がない。

とにかく幸せに生きて欲しい。幸あれ。まじで。

 

いやいや、オツボネさんの話を書きたかったわけではないのに。まあ他人のことを笑える余裕があるということかなー!

 

今日は早速お客様と話をしました。電話で。(仕事柄、対面で話すことは無い)

そして一本目の電話で一件獲得!(何を獲得したのかは諸事情で言えないけどとりあえず良い結果)

後半は、先輩に助けてもらったけどな!

でもええねん。

 

明日もやるぞい。