失意からの回復を祈りつつ緊張の階段をのぼる
私が失職したばかりのころ、映画に行ったり本を読んだりブログを見たり、色々なものをインプットした。目的は特に意識していなかった。
強い想いや表現に圧倒されたかったのかもしれない。自分の感受性の鐘を鳴らしたかったのかもしれない。ぼんやりと、海みたいなものに飲まれて漂いたいような願望もあった気がする。
そのときから読んでいるブログがある。私よりも長い時間、うつと向き合ってこられた方のブログ。私と同様、ちょうど今、求職活動中。
昨日、不採用の連絡がきたとブログで更新されていた。深い失意に打ちひしがれていた。
何も言えることがない無力感は、彼の回復を祈る気持ちからくるもの。
どんなに悩んでも私が彼にできることは、やはりないのだけど、ただこうやって文章に留めて彼の回復を祈るほかない。少なくとも、私の無力感は昇華されている。
私は、さっき派遣企業から電話があり、明日の単発アルバイトが決まった。素直に有難いことであり、小さな達成感を着実に得ている自分を大切にしたい。そして、不安も増している。
あさって以降も同じ派遣企業からの紹介バイトに申し込んでいる。上手くいけば続投できるだろう。ヘマをしたら仕事は減るだろう。そのくらいの察しがついている。
1人も知り合いがいない完全アウェイバイトだ。果たして頭の中に居心地の良い場所、ホームを作ることができるだろうか。それは例えば、誰とも目を合わさずひたすら黙って作業するという振る舞いも、心に居場所をもたらすという意味でもホームになる。そんな何か。
リハビリバイトを与えてくれた母に感謝。本当に身勝手な人間だ私は。
想定できるあらゆる現象に手を打つことはできない。そんなことを考え出したら、私は国防や天災のことも考えないといけない。
だから、現象をネガティヴに認識する私の脳みそと、"上手くやっていく"のが得策だろう。つらい人が居た時の表情を想像してみよう。侮辱された時の相手に毒を盛れるような言い返し考えておいて心の中で唱える練習をしてみよう、笑顔で挨拶する練習をしてみよう、よしよしよし。期待値を下げつつ、自分を盛り上げる。清濁併せ呑むのだ、よしよしよしよし。
こんなことを書くところからして、そう、緊張しているのだ。先週から、緊張の階段をのぼっている。これからも、緊張の階段を上手くのぼれる人でありたい。
読みたい本から自分の求めているものを知る
図書館へ行ってきた。
昔から話が抽象的だと指摘を受けることが多かった。好きな本も概念に関わるものばかりだった。けど、今日は珍しくエッセイや、日記集のようなものを読んだ。
うつ病の人の発症から、治療、回復、再発。そして現状を記したもの。
精神病棟で人生のほとんどを過ごした人が、関わった人を観察した手記。
若くして失職し、セックスワーカーを検討するも断念して生活保護を受けて生活する女性の話。
末期ガンを宣告された老人と、それを看取った家族の物語。
などなど。
どれも、かつての自分であり、いつか訪れるかもしれない自分である線を感じた著作を選んで、読んだ。
いろんな人の、いろんな瞬間に対して共同体感覚を持ってみようと試みると、ダイブしやすい話と、しにくい話があることにきづく。
特に、うつから復帰して、しかしまた再発した人の話。そして再び学んで今は安静している話。ググッと読みいった。
文字に起こせないほどの深い焦燥や葛藤と対峙しながら、地道に一進一退したのだと想像する。
私は、この深い焦燥や葛藤を無視してはいけないと思う。「人に見せられるようなものでないから、自分の意識にも存在してはいけない」という不寛容を取り払い、生々しい戦いを大切にしてこそ生きていると言えよう。
吐き出していく
誰からも共感を得られなくても、書いて吐き出さないといけないことがいくつかある。
ファミレスのように、いつだって均しいクオリティを提供しないといけないわけではない。書きたいことをブサブサと書いていこうとおもう。その自然な有り様を大切にする。
自己愛と自己嫌悪は似ている
「立つ瀬をもたらす」という点で、自己愛と自己嫌悪は似ている。自傷行為も、暴力行為も、気晴らしとなる全てが近い性質を持つだろう。
同じところをぐるぐるしながら、自己愛や自己嫌悪に色を変えていく。あまり遠心力が強すぎると、人は立っていられなくなるのかもしれない。
無頓着、天真爛漫、気楽でいられたら…そんなことをウダウダと書き連ねていく未熟さと卑しさ。そんな自分が好きなのだ。
きっと多くの人が気づいてある。僕の額から、自己愛がとめどなく垂れ流されていることに。あさましい。
なんてことを書いているそばで、今日の夕食の献立を考える。狂気はいつだって日常と同居しているようにおもう。
私小説「国道30号線」
私を山奥まで運ぶこの女は、いまどんな気持ちなのだろう。月曜、朝の国道は、予想どおり混んでいる。
私は月末の上京に想いを馳せながら、高速バスの価格を調べている。よし、まだ売り切れてない。今日のバイト代で買える予定。
このバイト先は、母が私に紹介した。部下のミスで、印刷発注したチラシが折り加工されていなかったそうで、それを朝から晩まで折る仕事。私のような時間を持て余した病み上がりには"うってつけ"だと、鬱屈とした気持ちにそよ風を吹き付ける。そんは退屈さをしっかり搭載した仕事であった。
チラシがあるのは、山奥の事務所。私は、あと2日間だけ同僚となるこの女、母の部下の車に乗せてもらい、山奥へと分けいっている。
この女は何を考えているのだろう。何を聞いても柔らかく肯定ばかりするこの女は、先ほどから「道が混んでいるので定時に間に合わないかもしれない」と、しきりに私に申告するので私は無関心にあぁそうですか、と答えた。
そのくせこの女は、定時をまわっても自分の作業が終わるまで手を止めない。貴様は時間給なのだ早く帰れと、いう周囲の目を感じ取ることができない鈍感な、極めて愚直な人間である。
赴く事務所は、部外者を歓迎する空気はないと。そんなことを母から先だって聞いており、「あらあなた、ミエコさんの息子さん?」と無頓着に聞いてくる者もいるだろうと、母はしきりに心配していた。
私は頭の中に胸毛の濃いイタリア人を住まわせる。「イタリアでは無職でも痛くも痒くもない!チャオ!」と笑っているこのイタリア人を自分に憑依させて、どんな無粋な問いにも答える準備が整っている。
この女はいま、どんな気持ちなのだろう。今日で会うのが二度目となる男を後部座席に乗せて、1時間近く会話を交わさず山奥へと分けいっていく、この女の今の気持ちを知りたい。
就職活動スタート。
先日、ある本を読んで、自己愛とは、人生の幸福を構成する重要な要素だとわかった。
自己愛には、いろいろな形がある。多くは他者を巻き込む。その巻き込み方が、その人の住む社会において認められるものであるかどうかが、障害の有無を規定するのだとおもう。
自己愛の所在によって、世界が仲間に見えたり敵に見えたり、人間というとは悩ましい生き物である。生存欲求よりも自己愛が優先されることが、往往にしてあるのだから。
今日は、先日私に軽作業を頼んだ事務所の方が、まあまあ強引に、作業部品を家に送ってきて、まともな指示もなく「月曜までによろしく」と頼んできたので、少しカチンと来た。
ニートにだって、ぼーっとするとか、寝るとか、自分の時間の使い方を決める自由があるのである。継続契約を結んだわけでもないのに甘えるなよ、と思った次第である。
そうこう、モヤっとしつつも、月末には1週間ほど東京に行きたいなーなどと思っていた矢先、親から「もうあなたの趣味にお金を払う余裕はない」と。そんなこと言われたら、あからさまに焦るのでやめて欲しい。やめて欲しいが、明らかにこの議論は私が劣勢であることは自明である。そう、私も甘えさせていただいているのでございます。
焦らずして勝つべし。そんなこんなで、満を持して就職活動を始めた。預けられた軽作業を早々に終わらせやった。はっはー!
転職ナビサイトに久しぶりにログインすると、4ヶ月前に無断で音沙汰なしにしてしまった企業人事担当者や、エージェントからメールがたくさん来ていた。申し訳ないと思いつつ、当時は仕方なかったのだ。死ぬよりマシだろ。と今でも胸を張って言える。
さてさて転職活動。
アレコレと仕事を検索しても、本当にピンとこない。ワクワクした後に不安の芽が吹き出るというよりは、出てくる仕事が本当にピンと来ない。
転職ナビサイトの検索軸は、私の思考を画一に切り取ってくれる。この軸に沿って進めていて大丈夫かと不安になりますね。
転職エージェントを使おうか、悩み中。
と思っていたら、前々から気になっていた企業の掲載が本日締め切りになっているじゃありませんか。
迷わず応募。ええい、野となれ山となれ。スーツは今日久しぶりにクリーニングに出され、いよいよ賽は投げられたのであった。
今から就職活動を始めても月末までに給料が入るのは不可能なので、まあ間違いなく親に借金である。
就職して、返す当てがあれば大丈夫だろう。たぶん。
この楽観性をすくすく育てて残りの人生もクリアしていきたいわけである。