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根が深い。

ネアカとネクラな世界を行き来する陰陽師。

旅を終えて

福岡への旅を終え、夜行バスに乗り込み、今朝帰宅。

疲れが取れず、お昼に目を覚ましました。

今までぐっすりだった夜行バスも、4〜5回目が覚めた。お酒も飲んだのになあ。

 

再会や、新しい出会いがあり、とても嬉しかった反面とても疲れたのかしら。

色々な人の、強い想いに触れて疲れたのかな。陰と陽がめまぐるしく入ってきた。

 

ある作曲家の方と初めてお会いし、その方の作品の中に込められた感情で共に傷つき、新しいものが生まれる予感がしたよ。

この気持ちについては、また書いて整理したい。キーワードは、再帰性

 

ゴールデンウィークが終わったら、求職活動をしようと思ってる。でも、今回あまりに疲れたのでフルタイムで毎日働くのは、思ってたよりシンドイかもしれない。と思った。

 

今日は録画していたNHKの番組をみた。知恵泉という番組で、宮沢賢治が創作や表現を通じて、挫折や葛藤、大切な人の死などの様々な苦難と折り合いをつけたという内容で、すごかった。

ここ数年、NHKが大好きなので、ウェブ再放送とかいつでも見れるプレミアム会員になろうかな。

 

今日は、鮭を煮て、食べたら少し作業する。

 

久しぶりに日記らしい日記。

南阿蘇の緑。

「こんなときくらい、気の利いた言葉が出てくればいいのに。」なんて思うことがある。"それ"を語る言葉を私は持っていない。きっとそれは、私が"それ"の新しい部分と出会いつづけているから。だから"それ"は終わってないのかもしれない。言葉の方から現れてくれるのを気長に待つ。

 

緩やかな時間を過ごしている。今日は実家を離れ、福岡に来た。4月、5月の本番に向けた練習だ。3日歌って、また地元へ帰る。

 

時間がたっぷり。桜を見たり、集中して楽譜を眺めたり、風を浴びたり、川を見つめたりした。

 

そういえば「阿蘇の緑は、他の森とは緑の深さが違うんだよ。なんか深いんだよな。」と、旅好きのオジちゃんが言ってたのを思い出した。

 

その夏に友人と連れ立って南阿蘇へ車で旅をして、目に焼き付けた深緑が懐かしい。三年ほど前になるだろうか。

 

少しくらい気の利いたことが言えたらいいのにと思うには、1年は短すぎる。

 

人を諦めたくない。

人を諦めないことに固執したから、僕は鬱になったんだと思っていた。

 

でも本当にそうだろうか。僕は人を諦めなかったんじゃなくて、ただ相手に期待してたんじゃないだろうか。

 

他人を諦めない。でも期待もしない。同じように自分を諦めない。でも期待もしない。

 

何かをしてくれるからファンなんじゃなくて、ファンだから、ただ生きていることに喜んでいる。

絶対にそばに居てくれる自分の大ファンが、自分の内側に住んでる感じがする。

 

天気がよいので、今日も桜が見たいなあ。

境目をつかう人になる

肩こりがひどくて。昨日テレビで「痛みは脳に痛みを感じやすい回路が出来上がってしまっているので、脳をだませばよい」らしく、「脳に報酬を与えれば和らぐ。例えば、好きな人の写真を見るとかでよい」と言っていた。

それを見て、「そんなカンタンなことでいいのかよ!」と思った瞬間に痛みが少し和らいだ。脳って単純だ。なので、好きな音楽を聴きながら寝た。たしかに、好きな音楽を聴いていると肩こりは感じなかった。

 

脳が、「痛みを感じる私」、「痛みの癖」をつくっているんだそうだ。

肥満の人は鬱になる傾向があるらしい。なぜならば、肥満の人は身体への負担が強いため痛みを感じやすく、痛みを感じやすい人は、鬱になりやすいということだそうだ。

 

鬱を気合で直すことは難しいかもしれないが、痛みくらいなら消せるかもしれないと思った。だから、その「脳の癖」を考えてみる。

 

境目が色々なところにある。

職場、家庭、趣味サークル、飲み仲間、行きつけの店、いつも座るカウンター席、自分の家、自分の部屋、河川敷、高架下、自分ひとりの時間、お母さんの味噌汁、愛着のある枕、お気に入りのアクセサリ、辛い経験をしたあの場所。

場所、時間、ものなど、「自分にとって固有なもの」がある。その周りに「ここから、ここまで」という線みたいなもの、「境目」があると気づいた。

 

脳の癖って、「境目」じゃないかしら。その境目に接近すると、具合が良くなったり、悪くなったりする。

 

「境目」について考えてみた。

 

1.境目をつくる、境目を消さない

むかし、「3つ大事な場所を作れ」というのを聞いたことがある。例えば、「家庭、職場、地元の友達」とか、「不倫相手、子ども、いつもの居酒屋」とか、「湘南の浜、図書館、家のトイレ」とか、「村上春樹の新作、半身浴、逆ナンパ」とか。書いてたら楽しくなってきた。なんでもいいのだけど、身体的負担・経済的負担が少なくて、かつ幸福度の高いものがあるといいのかもね。

3つを作っておけば、どれか1つで辛い思いをしても他の2つに逃げればよいということ。そして同時に3つを交わらせるなという戒めでもある。例えば、「地元の友達と、職場の同僚が、偶然自分の知らないところで(例えば草野球チームとか)で知り合ってしまうと、“職場の私”と“地元の私”が、統合されていく」ということ。3つだったものが、徐々に境目を失い、2つになっていくということ。

大事な人同士を結びつけるのは楽しいことだけど、境目を失うことは少し不安でもある。

 

2.境目を無視する

境目は、あくまで「場所」をつくるだけで、「居場所」を創ることではないと考えます。その「その場所の価値観」が変われば、居心地の良かった場所は、一転、居心地の悪い場所へと変わり得る。

しかし、人は「(目に見えない)居心地」に従うのではなく、「(目に見える)場所」に従ってしまう傾向があるんですね。

 

「場所」とは、自分が思っているよりも脆いものだからこそ、今まで守っていた価値観すなわち境目に気付き、それを無視していく作法が、「境目を使う」の真骨頂だと考える。どんなとき、境目は消えるのか。

 

・結果を気にせず、満足感だけで動いたとき

・周囲の期待を無視したとき

・いきなり完璧を目指さず、小さいハードルを一つずつ超えることに集中したとき

・「普通」を目指さず、生きてればOKと思えた時

・絶望しきって、やりたいことが見えたとき。(絶望にもパワーが必要で、生きてるあかしだと思うから、絶望は悪いと思う)

・周りに何かを言われても、気にならないことをやってるとき

・肩こりが消えるものを見つけたとき

 

そんな感じです。

助けること、助けを求めること(追記有)

仕事をやめて辛かったときに私の心を支えてくれた、あるブログ記事を紹介したいです。このブログを読んでくださっている方は、私と同じように心の疲れ、病いを抱えている方や、自分の大切な人のために情報を集めている人など、色々な人がいると思います。そういった方々の参考になればと思っています。(たぶん初めて、読んでいる人を意識して記事を書く!)

 

・まずは、私の話。

(書き始めたら長くなってしまった。飛ばしてもらって大丈夫かも・・・)

何故この記事に出会ったのか。振り返ると、2か月ほど前になります。体感では、半年くらい前に感じますが・・・笑

 

仕事を退職して、漠然と、「今後、どんな態度で生きて行けばいいのか」ということを考えていたころでした。「態度」というのは、そもそも他人に示されるもので、きっと「他人の目」を強く意識していたんだと思う。

 

そして同時に、今年4月に開催されるコンサートに向けて、プロジェクトが本格的に動き始めた頃でした。(昨年末から、私はこのコンサートの運営幹事をやっています)

 

このコンサートは、東日本大震災・熊本大震災の復興を支援するチャリティ目的のコンサートでした。出演者は全員ノーギャラ。全員が自分たちの時間を捻出して、開催にこぎつけるもの。普通の楽しいコンサートとは少し違うメッセージを持つ、私の中で特別に位置付けているコンサートでした。

 

「なぜ、いま私がこのような状況に置かれているのか」

「こんな状態で、コンサートをどうやって行くのか」

「でも、何らかの形で関わりたい」

色々な考えが錯綜し、振り返ると不安定だったなと思います。もちろん、自分なりに考えていたのだけどね。 

日々、自分のこと、コンサートのこと、コンサートにかかわる人たちのこと、被災者のこと。様々なことを考え続け、言葉を探しました。思い浮かべたり、書いたり、口に出したりしながら、私は考えをまとめようと努めました。

 

・助けあうことで、成果を最大化するチームを実現したかった

 

そして、あるブログ記事に再会し、このコンサートのプロジェクト推進のモットーを「支援は余裕のある人がすることだ。余裕がある人が、目的意識をもって支援をする。支援してほしい人は、遠慮なく支援を求める」と定めました。個々人の力には差があります。それをチームの力で、なるべくストレスなく埋めたいと考えたのです。

これは、私が今、日々を過ごすにあたって、強く背中を押してくれるモットーになりました。あるときは他人に助けを求め、あるときは他人を助ける余裕のない自分を認め、またあるときは他人のフォローに回る。

それこそが、私がもっとも理想とする生き方の一つだと知りました。

 

・皆さんに紹介したい記事はこちら。 

 

前置きが長くなりました。哲学者、内田樹さんのブログ記事をご紹介します。

『七人の侍』の組織論 (内田樹の研究室)

 

好きな箇所を抜粋します。

どういうタイプの共同体が歴史の風雪に耐えて生き延びることができるか。これはなかなか興味深い問いである。

 

前に、住宅についてのシンポジウムの席で、「コレクティブ・ハウス」を実践している人から質問があった。

その人は20世帯くらいで住まいをシェアしている。子どものいる若い夫婦同士はお互いに育児を支援し合って、とても助かるのだが、高齢者の夫婦などはいずれこちらが介護せねばならず、若い人たちは「他人に介護してもらうためにコレクティブハウスに参加したのではないか・・・」という猜疑のまなざしで老人たちを見つめている、という話をうかがった。

 

どうすればこの共同体を継続できるのでしょうというお訊ねだったので、「残念ながら、そういう共同体は継続できません」とお答えした。

 

一体、どういうことか?

あらゆる共同体では「オーバーアチーブする人」と「アンダーアチーブする人」がいる。必ずいる。全員が標準的なアチーブメントをする集団などというものは存在しない。
(中略)
あらゆる集団はその成員の標準的なアチーブメントに及ばない「マイナーメンバー」を含んでいる。幼児や老人や病人や障害者は集団内では支援を与えることより、支援を受けることの方が多い。

けれども、これらの「マイナーメンバー」を支援するときに、「自分は損をしている」というふうに考える人間には共同体に参加する資格がない。
あらゆる人間はかつて幼児であり、いずれ老人になり、高い確率で病人となり、心身に傷を負う。だから、集団のすべての構成員は時間差をともなった「私の変容態」である。

それゆえに集団において他者を支援するということは、「そうであった私、そうなるはずの私、そうであったかもしれない私」を支援することに他ならない。過去の自分、未来の自分、多元宇宙における自分を支援できることを喜びとすること。そのような想像力を用いることのできない人間には共同体を形成することはできない。

 

では、どうすればよいのか。

集団成員のうちの相対的に有力なものに優先的に資源が配分されるような「弱肉強食」共同体は長くは続かない(いずれお互いの喉笛を掻き切りあうようになる)。
集団成員のうちのヴォリュームゾーンである「標準的な能力をもつ成員」の利便を最優先に配慮する「平凡」共同体も、やはり長くは続かない(全員が均質化・規格化して多様性を失ったシステムは環境変化に適応できない)。
もっとも耐性の強い共同体とは、「成員中のもっとも弱いもの」を育て、癒し、支援することを目的とする共同体である。
そういう共同体がいちばんタフで、いちばんパフォーマンスが高い。
これは私の経験的確信である。

 

それゆえ、組織はそのパフォーマンスを上げようと思ったら、成員中に「非力なもの」を意図的に組み込み、それを全員が育て、癒し、支援するという力動的なかたちで編成されるべきなのである。その好個の事例が『七人の侍』における勝四郎の果たした役割である。 

 

七人の侍』のセリフを交えた、さらに詳しい話は、ブログ本文で見ていただきたい。上の文章が難しすぎたという人も、読んでもらえれば分かりやすいと思います。

私はこれを最後まで読んで、「自分は生きていていいんだよ」と、私は背中を押してもらいましたし、「どこへ行っても同じだよ」という呪縛から逃れることがきました。もちろん全ての人にとって、そういう効果があると約束できるわけではないのだけど。

『七人の侍』の組織論 (内田樹の研究室)

 

あー読む人を意識して文章かくと、なんだか着陸しなくなる。ふぅ。

 

(追記)

弱者を許容しない共同体が、かつて日本にはあったのではと思いました。それは「姥捨て山」というシステムを導入していた集落です。これは、全ての共同体構成員が、「自分が捨てられるリスクを背負うこと」に全員が合意したときのみ、運用可能となるのでしょう。ふと思ったので、追記でした。

一度自分から離れてみる作法

5月にコンサートをやるのですが、5月のほうは、コンサートの司会進行をやることにしました。なぜならスタッフを雇う経費を削減したかったから・・・笑

 

もともと、人前で話をするのは好きな方でした。決して上手くはないのだけどね。

でも、人と話すこと自体がご無沙汰ですので、想像しただけで緊張する。

モワワーンと黒い雲が漂ってきます。

原稿を書いていても、頭の中で再生されなくなる。

面白くないと思われたらどうしよう・・・。

段々、気が重くなって司会原稿が書けなくなる・・・。

 

「コンサート 司会 お手本」などで検索すると、「司会者の心得」みたいな動画が出てきたので、鑑賞。この人たちみたいに自信いっぱいにやれればなぁ・・・なんて思ったり。

 

 

はてさて、この人たちと、私の違いは?もちろん技術的な違いはあるのだけど、意識的な部分で違いがあると分かった。

 

それは、

「私が、「私が失敗すること」を想像している」ということと、

「私が、「この動画の人が失敗すること」を想像してない(できない)」という点、

シンプルにこんな違いがあるぞ。

 

ある動画の中で、「人は話の内容が平坦でも、少しくらい言い間違えても、抑揚豊かに自信をもって話す人を魅力的に感じるのです」と言ってた。やっぱり初心者は、技術以前に、意識が重要みたいだ。特に声や表情って、そういうもんだよね。

 

 

一度、自分を見つめることから離れて、この動画の人に私の原稿を読んでもらうことを想像してみると、あら不思議。とても上手にやってくれます。この想像上のお手本をコピーしてみることにします。

 

まずは脳内再生。次にシャドーイング、声出してみよう。

次に録音。うまくいったら、録画してみようかな。

そしたら段々自分から離れたものが、自分に近づいてくるような気がする。

 

そんな作法を思いついた。

 

たぶんそのうち、開き直りの境地に達して、楽しくなってくるんだろうな。

たぶん、録音するあたりくらいから、開き直って、

我ながら上手に録音出来たら、褒めてくれそうな人にシェアすると思う(笑)

こうやって書いてたら、なんだか前向きになってきた。

 

自分を見つめて進めなかったのに、一度自分から離して、

違う人を代入して、自分をそこへ連れてくると、

段々と自分を見つめることが少し楽しくなるのかな。

 

おし、ここまでの脳内デモンストレーションはイイ感じだ。

あとはやるだけだ。やるぞー。おしおし。おーし。