根が深い。

自己愛を手なずけたい人へ。

やりたいこと

土日はフェリーに乗って島へ行った。海に行った。島にあるアートスタジオをたくさん巡って、美術館も2ついった。安藤忠雄、モネ、タレル、マリア。観光の外国人の方に道を聞かれ、彼女のいる手前がんばる他なかったのも思い出。

 

地元へ帰るとき無収入で滞納していた医療保険はいつの間にか強制解約されており、復活申請をしたら鬱を理由に断られました。いいよいいよ。

 

やりたいことに改めて挑戦してみようかなと思う今日この頃。地続きの私が、自分自身を損なうことなく次へ行こうとしています。保険は失ったけど。

 

やりたいことが見えてきました。やったほうが良いことじゃなくて、やりたいこと。

ここに表明するときは、新しいブログを始めてみようかなと思います。こちらの更新頻度はさらに下がることでしょう。

 

なんと有難いことに読書がついているということで、書くことを読書に意味付けされ始めたら書きたいことも無いくせにと自分に嫌気がさして筆を置きますが、そうもならないうちは書いていようと思います。書かれたものに意味付けをしてくださる方がいるということは、これまた有難いことですね。

 

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遠い過去

東京の生活をやめて、地元に帰るまでの1ヶ月間。帰って来てからの数ヶ月間は、自分が生きることだけを考えてだと思う。それで良かったと思う。今までの全てを失ってもなんとも思わなかったと思う。今からまた生き直そうと思ってた。そう思えたから、今ここまで生きてるんだと思う。

 

帰る前までのことを昔と呼ぶとすると、昔はよく連絡をとっていた人のことを最近ふと思い出す。

いっぱい飲んだ人、めっちゃ喧嘩した人、男女のスッタモンダあった人。

 

この帰る期間にも連絡をとっていた人がほんの少しだけいて、この人たちが自分の連続性の保証人なのかなと思い。

私自身は自分の連続性を意識すると、未来が縛られてしまうようで生きづらくなるので、滲み出てくるものを誰かが感じ取るとして、それが私の連続性の証になるのだと思う。

自分の中にはある程度の一貫性があると信じたい。らしさを見出していたいという願望を他人に託したくなる。しかしその観察を強いることはできない。

 

今を生きれば良いと思ってた未来志向の私と、私の歴史を見出してほしいと願う私が、最近交信しています。共存してほしい。

しんどかった

今日は仕事しんどかった。心身ともに。人間関係じゃなく、単純に仕事がしんどかった。仕事に悩んでる。

 

ラジカルなコミュニケーションが多い。ふう。

理由もなく不安

休みの日、何も予定のない日に、「実は大切なことをやり忘れてるんじゃないか」という不安にかられることがあります。

前職、休みの日に気が休まったことはありませんでした。出勤すると上司からもう仕事しなくていいよとドヤされ、みんな黙って自分のパソコンカタカタやってんの。今この瞬間、地球に隕石ぶつかってほしいって思ってたずっと。いやミスしたの自分ですからね。バカバカ。って、周りに腹立つ気持ちと自分への情けない気持ちが高速サーキュレーションしてエンスト。

 

良くないことを考えてしまいます。でも今は、そんなことが起こったら、いつだって逃げ出そうって決めてるから怖くない。何が起こっても、絶対に失われないものがあるとわかったからね。

 

 

三連休は台風が激突し、暴風雨の中、幼なじみと飲みに行きました。嫁と上手くいってなさった幼なじみ。仲直りしてました。

暴風雨のなかを車で送迎してくれた嫁さん。旦那のいないタイミングで、この前は旦那に付き合ってくれてありがとうございました。ご心配かけて、すいまさんでした。付き合ってやってくださいねって。

いい嫁さんもろたやんけ。

常に新しさを感知

偉い人の独断で、。10月の第1週に大阪の支社に研修に行くことになってしまった。わたしバイトなんですけど、社員のひとと同じ研修うけるってダルいわい。

大阪の偉い人が、私のいる支社に文句をつけたいらしく、わしの支社で修行して学べ!ということらしい。

それ、「ほらやっぱりお前ら仕事でけへんやんけ頑張って俺の言うことちゃんと聞けボケ」という蹂躙シナリオ確定やろ。

 

最悪のシナリオへの想像力による心的耐性の強化。これが私に備わったunconscious protection skillです。

環境の変化を完治し、想定する。事が起こると、毅然とした態度。冷酷な眼差しで相手を見つめることができます。

大阪、うまいご飯たべたいなあ。

 

 

全然話変わるけど英語の勉強してんだってバイリンガルの友人に話したら、日本語だとハードル高い話題をいきなり英語で放り込んでくるので、そこからいきなり英会話が始まるの面白くて、とてもいい勉強になってる今日この頃。

聞いてほしいだけ

自分の中に飼い慣らせない感情を、どう発露するかで品格や優雅さがわかる気がする。

 

誰にだって理不尽は起こる。なぜ自分に起こるのか理屈で解決できないからこその理不尽。生きてるだけで損することがあるのです。それが人生と割り切れるほどわたしは人間としての人生を何度も経験してないともおう。前世はおそらくウミガメだよく泣くから。

 

誰かから聞いた話を自分の中に仕舞い込めないときがあったりする。誰かのゴシップ、誰かの幸せ話。、良くも悪くも衝撃を受けた時そのまま身体に馴染む時と、ある程度そとに逃がさないといけないときとがある。

仕舞い込めてたのに、急に出したくなる日もある。身体の中をショックがのたうち回ってたのだ。発露される時を待ってるそいつ。

 

ツイッターは何を言うかではなく、何を言わないかによって品格や優雅さがわかると誰かが言ってた。ツイッターでなくても、そうだとおもう。

不特定多数に向けてワンワンやってる(当の本人はそれが誰かに届くと信じきっていることが多いのだけど)と、結局誰にも受け止めてもらえない。誰か信頼できる個人に聞いてもらうのがいい。自分の人間らしさを維持するガス抜きメソッドもってますか。なるべく時間的・経済的コストの低いものがオススメです。

 

話、聞いてほしいだけなのって。意外にも聞き手にとってもストレスな場合もあるのでちゃんと話す前にエクスキューズしてからがいいですが笑

今ムリって言われることもありますけど、それはそれとして、言ってもらえることがある意味信頼の証でもあるとおもいます。

鬱あるあるそれは幼稚な論理化

後から考えればとてつもなく非論理的で、飛躍した「論理的っぽい何か」を抱きしめて、自分の包む強風(と自分が認識してるもの)をやり過ごそうとする構造。それが、鬱の形態の一つと思う。

 

鬱というのは、未来のない歩みだと思う。それは諦めの類型だとおもう。落とし所の見える無限。こういうもんでしょ感。だとおもう。

 

パッケージ化された循環論理の中で、はいこれもこのパターン(なので考えるのムダ)!そしてこれもこのパターン(なので考えるのムダ)!

を繰り返している。実は考えたいのに。

 

そうこうしてるうちに脳がBomb!して、どこが自分の思考思想の座標なのか分からなくなる。もともと座標があったかどうかは置いといて、わかってたつもりだったのに自分の認知を信じられなくなる状態になる。

 

この幼稚なパターン化。疲弊した私のキャパシティが設計できるギリギリの論理性によって、諦めと、諦めへの葛藤が醸成されていく。この葛藤が、時間とともに腐って内臓の内壁にこびりつく。

 

自分の幼稚さに。鐘を鳴らしてくれる人を大切に。