根が深い。

自己愛を手なずけたい人へ。

乳歯を砕くチャーシュー。

職場の近くにラーメン屋がある。この店が出来た時のことを知っている。15年前。中学1年のとき。

 

豚と鶏のベースに少し鰹節を入れたオリジナルのスープは、くどくなくて好きだった。極め付けは、しっかり燻製した硬めのチャーシュー。初めて食べたときに、私の幼い奥歯がチャーシューと衝突して割れた。流血して爆笑したの思い出した。

 

15年ぶりだったけど、今日も美味しかったよ。少し嬉しかった話。

書かないとき

ほぼ毎日、呼吸するみたいにブログかいてたから、書かなかった日がむしろトピックになる。書かなきゃー!という気持ちは1ミリも無いので、書かなかった日を冷静に見つめることも楽しみだったりする。

 

先日、ある事件が起きて一日考え込んでました。あー何か書きたいなと思ったけど、なぜか書けない。

 

その事件について文字にしながら整理していきたいのだけど、その話題に触れたらダメな方に進んでいきそうで、動けなくなる。

 

この動けなくなる感覚をほぐしながら、何かが書ける私になりたいなあ。その話題について、触れる文章なんかわざわざ書かなくても、何か違うことをツルツルと書けたら。

 

取りつく島もない。

アダ名。

私の指導係りをやっている職場の先輩(女)と上手くいってない。先輩と言っても私の方が三つ年上で、どうやら彼女には指導経験がないみたい。「まだ入社4ヶ月だし」と愚痴っていた。その愚痴は、俺にしちゃダメなんだよ?と思いながら聞いていた(笑)

 

私の方が年上だからか気を遣われていて、しかし同時に変な焦りが伝わってくる。「聞かれたことに分からないと言いたくない」みたいな。私はなるべく自分の経験を話題にしないように気をつけ、彼女の経験を話題として引き出し、彼女のディグニティが高まるように心がけている。

 

たまに、質問したことに対して全く的外れな回答をするときがある。

それは、おそらく、私の質問に答えられないことを悟られまいとしているのではないかと思う。それがパニックを引き起こして、(意識的にか、無意識的にか)強引に転換しているのではないか。明らかに質問の趣旨と異なることを延々と、ともすれば「この前も言ったのに」的な立ち位置から話が始まるので、これは少し腹がたつ(笑)しかしこれは、彼女が指導係としての責任を強く感じていることの裏打ちでもあると言えるだろう。

 

この空回り感を、残念ながら私はしっかりと感じている。彼女に気持ちよく働いてもらうために、私は早く仕事を全て覚えたい。

彼女の気持ちを察して気の利いたことを言うのもいいが、真正面から仕事に向き合い、実力をつけることでしか本質的に報いることはできないのだと思うから、分からないことは分からないと言う。変だと感じることは変だと言う。

 

そこを適当に流したら相手を侮辱することになるだろう。私のミスは、彼女のミスなのだから、そこはやり合わないといけない。

 

ふと気がついたら、アダ名で呼ばれていた。私の姓をもじったアダ名。彼女以外、誰も私をそのアダ名では呼ばない。

彼女も、私以外の他の誰にもアダ名をつけていない。なんなんだこれは。そもそも職場でアダ名なんて、生まれて初めてである。

 

このあだ名は、私と彼女をつなぐ呪文なのかもしれない。俺も明日、いきなりアダ名で呼んでみようかな。

恋愛におけるリーズナビリティと婚活

以前に婚活について書き捨てた笑けど、はたと読み返すとなかなかに酷い内容で、やはり人のために書くとロクナコトガナイ。その割にまま多くの人に読まれているそうで、ちょっとアレなので、朝の15分でリトライする。

 

全ての行動には目的がある。行動の先に目指すものがある。なにかをゲインするリーズンがある。

これをやれば、何かをゲインできる。ゆえに行動する。

この構造式の論理性の高さがリーズナビリティ。

 

恋は盲目とかいいますが、おそらく盲目に見える人というのは、周囲に理解されるほどの論理性がない。リーズナビリティが乏しい。説明がつかない側面がある。それでよし、とするのである。幸せならよい。

 

婚活はどうか。恋愛と結婚を並列するのは気持ち悪いけど、わかりやすく比べると結婚にはリーズナビリティが求められる傾向があるようにおもう。結婚、つまり人生の大きなディシジョン。

 

ディシジョンと言ったのは、決断と判断があるということで、人によっては結婚すると決断する人と、結婚すると判断する人がいるだろうと言いたいから。

 

A or Not-Aのどちらかのボタンを押さないといけないとき、それを断つと呼ぶとすると、必要な情報を集めたリーズナビリティの高い状態で断つことを判断と呼び、一方"決め"で断つことを決断と呼ぶ。決断するときって、独特の高揚感と覚悟が両立するよね。

 

リーズナビリティなディシジョンすなわち判断と、高揚感・覚悟を込めた決断を複雑に織り交ぜながら、人は生きてるのだと思うけれど、

自分は決断モードに入っているのに、意識した相手が判断モード・リーズナビリティを発動しているとき、私たちは世知辛さを感じるのだろう。

 

リーズナビリティ・世知辛さと、高揚感・覚悟のはざまで苦しむであろうことが予測されるセンシティブな方には婚活をお勧めしない。

偶然

今朝、行きの電車で、中学時代の同級生のことを思い出してたんだけど。

 

ちょうど今さっき、偶然にもその人と再会した。再会つっても、こちらは歩行者でマスクをしてて、相手は車だったから気づかれなかったけど。

こういうことってあるんだなあ。地元だから、当たり前か。

 

地元の人に、ちょっと会いたい気分。

小さな自由

昼ごはんを食べるのが早い。すごく早い。食べると言うよりは、飲んでる。

 

空いた時間は持ち込んだ本を読んで過ごしたり、用もないのに本屋をフラフラ。仕事で厄介があったりストレスを感じた時は、決められたことと違うことをやりたくなる。時間ギリギリまで本を読み進める。時間ギリギリまで本を漁る。エキサイティング。

このブログもあと1分で書かないと。

 

最近通っている居酒屋は、昼も夜も客がいないので、店員にはすっかり覚えられてしまった。大将はシャイボーイ。嫁さんは調子に乗りやすい。娘はニンテンドースイッチをやっている。

定食につく100円のアイスコーヒーで、だらだらと居座るのだ。

 

小さな自由をいくつか育てる。

アドレリアン

アドラー心理学を用いたカウンセリングを独学で勉強している。アドラーは「勇気づけ」を推奨しているが、それは褒めることとは似て非なるものだとしている。

 

褒めること、すなわち条件付き評価は、内発動機付けを阻害するため、起きている事実を客観的に述べ、それがその人のありたい姿に沿った姿であることに気づいてもらう。軸を作っていってもらうようにすることを推奨している。

 

そんなことを考えていた矢先、ある資格に向けて頑張っている友人と話すことがあり、話していくうちに変な感じになり、とうとう「褒めて欲しかったのに」と言われてしまった。なんだこいつ正直すぎる。なんて思ったりした。

 

なんて思ったりしたけど、私も傷ついた。今までだったら普通に彼と仲良くやれていた私は、なぜか彼を怒らせてしまった。私がアドラー心理学を勉強し、それを通じて彼を捉えようとしたからだった。

 

正直、アドラー心理学の勉強をもうやめようかと思ったけど、もう少し頑張ってみようも考えたのは、私は私の目的に、つまり「多くの人が内側から輝いて生きていけるようになってほしいという願い」に向けて、精一杯振る舞うことをアドラー心理学は推奨するからです。

だから、もっと学びたい。もっと。

 

果たして、条件付き評価を求めるこの友人のことを、アドレリアンはどう扱うべきなのでしょう。

私なりの見解では、もう一歩メタ認知に踏み込んでいく必要があるのかなと思う。彼の軸を探すために。

なぜ彼が、そこに他者からの「褒め言葉」を必要とするのか。彼にだって褒められなくたってやってることもあるけど、それとこれの違いは何か。

本当は、内側から輝ける人でも、外発的動機づけに手を伸ばすことがあります。それにだって必ず何らかの目的がある。安易にそれを否定せず、それを尊重していく解法を前提とするアドラー心理学を僕は大切にしたい。

 

そんな気持ち。