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根が深い。

2017年1月、鬱で無職になった28歳の頭のなか。

絶対折れない心の根っこを作ろうとする脆さ

先日、ある本で「エンプティチェア」という自分の心と対話するワークを知った。トラウマティックなシーンを緩やかに再現して、自分の中にある自分と対話したり、苦手なあの人の立場になってみたり。それを、いかに上手く演じるのではなく、スーッとダイブしていくか、という難しさがあるのだけど、自分がやってみたいことに近かった。

 

調べていくと、アドラーゲシュタルト、TA( Transaction Analysis,交流分析)という単語がよく登場する。あまりよくわからんけど。

 

そんな風にネットをサーフしていると、気持ちがすっとなる動画に出会った。コーチング指導セミナーをやっている方の動画。すごくすっとした。今日はもう、これだけでいいような気がする。

 

人生ではなく『海外旅行』と思うと【宮越大樹コーチング動画】 - YouTube

違う星から80年くらい地球に旅行に来たんだと。

 

そういえば元気だった頃、悩んだときは「長い宇宙の歴史で考えれば、チリみたいなもんだ」とか冗談で思ってたことがあったけど、それよりは健全そうなイメージだなあ(笑)

 

こういう、心が一時的にフワッと楽になるものを持っていること自体を、私は最近まで軽んじていた。

 

強靭な根っこがないから、気休めしてるだけだと思っていた。こういう気休めは耐久性が低いから、すぐに飽きがくる。だから無駄だと。

 

しかし、最近ある本と出会って考え方が変わってきた。全然無駄ではない、というかむしろ、"「強靭な根っこ」に対する神話性・潔癖性・"のほうが脆いんじゃないかと感じ始めた。

 

また、こんど頭の中で整理してみよう。

 

掴めない気持ちを無視せず慌てず見つめる練習

仕事に行かなくなって最初の1ヶ月、通っていたクリニックの話。そのクリニックでカウンセリングしてもらったとき、ドクターは私に言った。

 

「あなたは自分の気持ちを、かなり明確に言語化することができる。なので、自分の感情に気づいた上で、その感情を瞬時に「無駄なものだ」と処理する癖がついてるんですね。あなたの中には5歳児のあなたがいて、辛いときや悲しいときは泣いたり怒ったりしてます。その声を抑えつけているのです。短期的にはそれでストレスの回避になったとしても、積み重なったものは深い可能性があります。まず、自分の気持ちに気づいて、それをどう処理するのか、その思考の習慣を筋トレのように養うことが有効でしょう」

 

迷いのない口調で簡潔に、優しく教えてくれた。雷に打たれたような気分だった。そして、ドクターは限られた時間で、私にあるワークを施してくれた。

 

ざっくり書くと、

❶傷ついたシーンを思い出す❷身体に何かを異変を感じているか確かめる❸5歳児の自分が感じた気持ちを、思いつくだけ言う❹その中から1つ選ぶ❺5歳児の自分に心の中で優しい声をかけてあげる❻身近にあるクッションを抱きしめる❼最後にまた会いに来てね、いつでもいいんだよと声をかけてあげる

 ※文章だと伝わりにくいと思うし、私もドクターに導かれて辿り着いたので、これをそのままやれば良いというものではないと思うのだけど。

 

私はこのワークで滝のように涙が出てきて、フッと楽になった。こんな風に自分を整理できる思考の整理を、なるべく1人で。時にはパートナーと。やれる方法を探したいと、無意識に思うようになった。

これが、この数ヶ月間、本屋や映画を今までにない勢いで見漁っていた、無意識の根源的な動機だったのだ (と、今日気づいた)

 

そして昨日、図書館で借りたある本。あの日、クリニックで何が起こっていたのかを分かりやすくシンプルに教えてくれる本に出会いました。感動。感動やで。

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フォーカシング。自分の気持ちを「あー、私は○○を感じているなあ」という事実に着目するだけ。中身を焦って解決しようとせず、その○○が語りかけてくれるまで、焦らずその気持ちを眺めて、育てるような内的取り組み。フォーカシングで何かを見出さないといけないという強迫的な観念は棄却して、自分の思考の緩さを許容することで、緩やかにかつ確実に○○との適切な距離感を見つけていく取り組み。

2005年に出版された本なので、今はもっと新しくなってるのかな。もうちょい探してみようかな。

 

なんか自分のことが見えてきた感があるなあ。

父と風呂に入った

父は要介護で、平日はデイで風呂に入っている。土日は、日曜の夜だけ家の風呂に入る。リフォームした手すり付きの風呂に入る。

今までは母がずっとやってたのだ。小さい体ですごいと思う。私が実家に帰ってきてからは、基本的にずっと私がやってる。

 

父は威厳ある人だった。どこか偉そうで横柄なところもある人だった。今も、例えば自宅の電話に掛かってくる勧誘の相手に向かってトンデモナイ態度をとるので、下品だと厳しく指摘するようにしている。プンプン。

父は小さい頃からずっと音楽をやっていて、趣味がこうじてプロのバックバンドもたまにやっていた。病気をして要介護になってすぐの時は、母いわく、しばらく音楽を聴くのを嫌がっていたらしいが、ある日の夕方、父は大好きな久保田利伸を聞きながら、動く左腕と左脚でリズムを叩いていることがあった。そのタイトなリズムは、まさしく父が得意としていた16ビートの裏裏を感じる、父の好きなリズムパターンだった。

その話をすると、母は驚いて少し泣いていた。二人が出会ったきっかけも音楽だったもんね。

 

父は、私に頼みごとをするとき、少し申し訳なさそうにする。自分一人では生活に不自由があることを少しずつ受け入れている父の葛藤を、私は感じ取っていた。

日々の介護の中で最もそれを感じるのは風呂だった。一緒に浴室に入り、背中を洗ったり、動かない右足を浴槽に入るようアシストする。

何も考えずに、私はパンツ一丁でずっと携わっていたのだけど、今日は湯船が気持ちよくて全裸になり、要するに一緒に風呂に入った。浴槽は二人も入れる広さは無いので代わりばんこ。

家の風呂に一緒に入るのは、恐らく22年ぶりであろう。気のせいか、父の表情がいつもより柔らかい気がした。

 

なんでもっと早く気づかなかったんだろう。やはり、裸の付き合いは大事だ。ポカポカ。

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やる気神話。

前々から考えていたことなのだけど、改めて文章して整理したかったこと。「やるき、モチベーション」の話。今朝、茂木健一郎さんがそれについてブログを更新していたので、私も自身の思考に絡めて、丁寧に書いてみる。

 

モチベーションと心の病

「やる気にあふれ続け、日々発見があり、モチベーションが高く保たれている状態」というのは、一部の超人・変人にしか起こらないと思う。そうだと分かっていても、今日はやる気が出ないなぁという自分が不甲斐なくなったりする。やる気幻想、キラキラ神話、みたいなものがあるのだ。特に、心の病気をしていると、そんな自分が情けなくなったりする。「やりたい、と口先では言うけど、本当は好きでも何でもないのでは・・・」と考え始めてしまうと、もうまずい。焦るのが一番良くないことだと分かっていて、余計に負のスパイラルに入っていく。

 

なぜ、やる気が上下するのか

やる気は、数字で計測できない。過去もっともやる気に満ちていた自分を知っているから、そこと比べたり、理想・あこがれる他者との比較でしか、自分のやる気を感じることはできない。とはいえ、所詮は「感じる」であり、「計る」ではない。そもそも、そんなものを正確に把握することはできないのではないか。

過去や他者との比較にフォーカスしている自分がいるだけで、そこに建設的な自己評価が存在しないならば、視点を変えるが合理的だと思う。

思い切って「やる気」という言葉を使わずに次へ進んでみたい。

 

そもそもなぜ辛いのか、何が辛いのか

思考の発散を、なるべくちゃんと整理していく。

  • やる気が無いのがまずいのではなく、「やろうと思っていたことが出来ていない」ということに困っているのだ。
  • いや、そもそも「やろうと思っていたことが出来ていない」と、本当に困るのかな?ほんとうに?
  • 「好きだと思ってやっていたこと」にも身が入らないとき、「好きだった物事のことを好きでなくなる」のは本当に辛いことなのか?好きだったという過去に縛られていないか。

やる気と問答を繰り返していると、収集がつかなくなってきた。それは何故かというと、「やりたいことが、やれてない」という客観的事実を突き詰めていくうちに、徐々に「動けない自分、困っている自分、苦しんでいる自分」に思考の対象がフォーカスしているからだとわかった。ここまで来てしまったら、開き直るしかない。焦らず騒がず。まあいいや、と声にでも出してみるといいのかもしれない。

 

やる気はコントロールできない

「あ~!やる気が出ない」と思い始めたときは、「一部の超人、変人を除いて、やる気やモチベーションはコントロールできないのだ。」と思うようにしてみる。(コントロールできているのかどうかも計測できないのだけど)

普段からも、やる気をもって取り組めた自分を過剰に評価せず、ろうそくの火をふっと消すように微妙に脱力して、一つ一つをノウノウとやってみようかな。今日、ふっと脱力した状態で、やれたことにフォーカスしてみよう。

やる気なく取り組んだことも終えてみると愛着や達成感が沸いてきて、楽しくなったりする。「やる気が親で、子が成果」なのではなく、「成果が親で、子がやる気」という構造があるのだと思う。

 

「がんばる」は、良き友か。

私がつらいときに、掛けてもらって一番うれしかった言葉は、「がんばってるね」でした。辛かった言葉は、「がんばってないね」でした。

「がんばれ」は、「がんばってないね」に脳内で変換される可能性があるのだけど、「がんばること」自体がダメだとは思ってない。ヒネクレ者みたいだけど、そう思う。

「焦らず騒がず自分のペースで、でもいつかは病と向き合っていきたい。自分の思考の癖と寄り添っていきたい」ということ。それは少なからず「がんばる」という要素が含まれていることを頭のどこかで理解している。

だから、「やる気」だけを悪者にせず、フッと脱力して、やれたことにフォーカスする。いつかは「がんばる」と良き友になりたいなぁ。ゆるふわ。そんな感じ。

 

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天職と自由研究。

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図書館で本を2冊読んだ。それを返したら未読は残り3冊になる予定だったのに、7冊借りて帰ってきた。これはいかに。

 

苦しんでどん底まで行ったのだ。命以外に失うものは無い。好きなことを仕事にするのもいいだろう。天職と巡り会いたいと思った。

 

ここでいう天職とは、「それになりさえすれば、全くストレスなく、全てが上手くいく、魔法のポジション」みたいなもの。人は仕事でなくても様々な幻想をもっている。自分以外の多くの人がそれを持っているようか錯覚に陥る。

 

今までの生活を全てやめて、実家に戻り、天職なるものを空想して、なんとなくわかった。これが天職だ!と事前にわかるわけがないということに。なんと爽快感のある諦念。

 

だから、過去にとらわれて、今の自分の正しさを確認するために、コンプレックスを浄化するために、時間を使うのはやめようと思う。

 

例えば、こうやって自分の考えを書き起こしている瞬間や、歌をやっている瞬間はトリップしている。自由であることを自分に許せる。報酬などいらない。その瞬間を知っている自分を大切にしよう。自由研究という言葉が、好き。

 

さあ今日も晩ごはん作らなきゃな。

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職を探してみた。

午後からハローワークへ行き、前回不備のあった資料を提出した。失業給付の申請が終わり、ちょっと見てみるかと冷やかし程度の興味本位で求人情報を閲覧した。

やり始めると、それなり"ちゃんと"考え始めてしまうので思考というのは恐ろしい。

 

エリアや、雇用形態などを選ぶのだ。婚約者のいるエリアと私の住んでいるエリアを選択した。いや、どうせ婚約者のいる九州エリアへ行くつもりなのだからと、私の地元は削除した。

今思えば、この辺からもう「モード」に入っていた。

 

職種は事務、業種は絞らず…

 

ふと、先ほど受付でもらった求人情報パンフを見ると、「1人30分まで、求人情報の印刷は5部まで」とあった。闇雲にやれないらしい。私の収束思考は加速した。

 

想像し始めると、今無職で右も左も定まってないまま、九州エリアに就職活動しにいくのは精神的にも経済的にも消耗がでかいと感じた。心身ともに焦りすぎだと思った。

 

地元だけに絞ると、知ってる病院や学校、企業名が並び、少しワクワクした。印刷して、ロビーのソファに座って選び抜かれた5つを眺めた。

 

思考が蛇行しているのがわかる。見比べると、興味のありそうな求人情報から、興味は無いがストレスなくやれそうな求人情報まで様々。

 

「ブレている。テンパっていた。軸が定まってない自分が居たことに、「30分以内・5部まで」のチキチキレースを終えたところで気づいた。」→「何が大事なの?」→「職場までのアクセス?給料?そんなの気にせず興味があることじゃないとストレスを感じた時にまたダメになるんじゃない?」→「好きなことを仕事にしてダメになったんじゃん」→「じゃあ最初から何も気にならない興味のない分野で頑張れば?」→「いかん、テンパってる」(ふりだしへ戻る)

を3秒で1周するスピード感で5周目くらいに突入したところで「3/30までに履歴書をお送りください」という文字が目に飛び込んで来て、思考回路がショート。私はハローワークを立ち去った。

 

リハビリにしては、少しハードだった。

 

その足で図書館へ。「はい、泳げません」という本を読みたくて、いつもあるはずの棚は行ったが、今日もない。しかし、もはや見つかってくれないことで、私の読者習慣は保たれている気もするので、このままでいい。

「読みたいこと」が先にあって、それを探していることに気づいた。

私の身体性と精神性を両方から鼓舞してくれるような本を探している。最近、身体表現に興味がある。歌もその一部だ。平田オリザさんの本を借りた。

 

冷やかしで職を探したのに、なぜこんなことに(笑)

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正しいことを言う人

昔、職場の先輩と話していたとき。先輩の家族の話になった。家庭関係がうまくいってないそうで、私が何か思ったことを言った。すると先輩が「おいおい、正しいこと言うなよ」

普段、私に色々と厳しく指導してくれていた先輩が、珍しくそんなことを言った。

 

正しいことを言う人が怖いとか。

あいつ正論ばかりで嫌いだ、とか。

怒るのは正論だからだという指摘とか。

それぞれの正義が衝突するから戦争が、とか。

正しさの取り巻くところに人のモヤモヤがある。

 

正しいことを全然言わない人がいる。(というと、私が正しさを持ち合わせているような言い回しだけど。)

アウトサイダーと呼ばれる人がいる。犯罪者、個性派俳優、世界的経営者、歴史的偉人、世界記録保持者。(アウトサイダーと呼んでる時点で、呼んでるその人自身はアウトサイドでもインサイドでもない、安全なところにいるのだけれど。)

 

誰になんと言われても、自分が正しいと思うところにいたい。要するにそういうことだ。