根が深い。

自己愛を手なずけたい人へ。

このブログは終わります

このブログを終わることにしました。書く場所を変えようと思います。理由はまあ色々ありまして。違うブログサービスに行きます。

はてなブログには「読者登録」というのがありまして、なんとこのブログにも10名くらいいらっしゃるんですね。ありがとうございます。

 

ここに文章を書く行為そのものが、私を支えてくれました。それは「誰かが拾って読んでくれるかもしれない」というブログの特性ものものに由来するものであり、他ならぬ読者の皆さんによって確証されるものでした。

本当にありがとうございました。何の関係もない名前も知らない人が、私の人生にジョインしてくれていて、私もそれを糧にしている。本当に幸せなことです。全く知らない他人の話だからこそ読んでもらえたのではないかと思います。私があなたの知っている誰かだったなら、それは見るに耐えないものであるかもしれない。

 

私は少なからず、このブログに「身内らしさ」を感じたのかもしれません。恥や外聞のような何かを感じているのだと思います。

顔も名前も知らない誰かが見れる状態にしておきながら、恥や外聞を気にするというのは些か自己矛盾も甚だしいわけですが。

 

いいのです。深い理由を追いかけない。

 

最近は生活に大きな変化があり、気持ちを新たに、見るに耐えないものを何も知らない誰かに読んでもらおうと思います。大変お世話になりました。

いろいろおこる

いろいろあって野暮用で弁護士事務所に行くことになりました。年始には中学の同窓会が開かれるという案内が来ました。趣味のコーラスでは2年先に関西関東の2公演を座長として回すことになりました。第九は来週が本番です。先週から放尿時に尿道が痛いです。同時に起こるときは起こるもんですが、まあこんなもんか、と脱力するのが大事ですね。淡々とやれば、大したことない。

ゴールに向けて

ある難しい資格を目指すことを決心しました。

合格率は3%らしいです。

でもやりたい仕事なので頑張ります。

 

 

週末は広島へ旅行にいきました。

休みの日に小さい旅行にいけるのは、

幸せなことです。

 

同じ週末、知り合いが歌の大きな大会に参加していました。私も6年出ていた大きな大会。はじめて途切れました。

なんとももどかしく、でも現地にいるような緊張感。

 

私は「伝えたい」という気持ちを渇望しているんだと気付きました。

伝えたいことがあります!と言う気持ちに敏感。そういう生き物のようです。

何かを伝えることをモチベーションにして生きてきました。これからもそうだと思う。

そんな私は今、自分の残りの人生をかけてやりたいことがあります。それが今、目指している資格に繋がってる。

資格の向こうにある仕事を続けていれば、大きなメッセージにつながると思うのです。

なんの資格かは、気が向いたら話そうかな。

 

人はいろんなゴールがあると思う。

それは目安なのか、本当にやりたいことなのかを整理して自分に落とし込まないとブレてしまうね。

走りはじめてみます。

 

試験は来年7月。目標は2019.7月合格です。

がんばるよ。

意外と笑ってなかった

母が趣味でフラダンスをやってて、今日は発表会だったらしい。朝からバタバタと。衣装を準備して、舞台用の濃い化粧をして、出掛けていった。

職場の人が見にきてくれたそうで、そのまま家に遊びにきた。本番の録画を見て、わーわー。

公民館講座の合同発表会だったらしく、英会話教室の発表が先生含めて全員カタカナ英語だったとか、フォークダンスクラブなのにシャモジと和太鼓を小気味よくチャカチャカトコトコ鳴らして終わっただとか、色々おかしな空間だったみたい。

久しぶりにゲラゲラ笑って、あー気持ち良い。久しく頭使わずゲラゲラ笑ってない。と思った。仕事はシリアスな話題しかないし。なるほどなるほど。

 

とりあえず風呂入って寝よ。

ベートーヴェン交響曲第九番と人間らしさ

人間らしいですね、と言われることが昔から多かった。とても気に入っていて、自分も人間らしいなと思うひとが好きになっていった。

 

ベートーベンは耳が聞こえない状態で交響曲第九番を書き上げ、リハーサルをこなし、初演を行なった。たいそうひどい演奏だったらしいが。

第9番はヨーロッパでもあまり演奏されることはない。日本が特殊で、特にソロは、日本のソリストの方がよく歌ってるという意見もある。

あの曲は気が触れた変人が耳も聞こえなくなって書いた駄作であるという酷評もあるけれど、いずれも楽曲を正当に評価したといえる批判に出会ったことはない。ベートーベンの人生をマイナスに踏まえすぎなだけなのだ。楽譜を読め。紛うことなき名曲である。彼の人生があの曲を産んだことは事実であって、しかし人生は楽譜には乗らない。楽譜を読め。そして、楽曲とは別にして、私は彼のように生き様を散らかした人間が、人間として好きでもある。

 

私の父は、脳梗塞で倒れてから、泣きやすくなった。母は脳の後遺症かなといってたけど、いや私に受け継がれてるのですけど。元々です。と思いながら、そのときはハハハと笑った。

父は笑い始めると止まらなくなる。横隔膜がコントロールできないんだろうか。笑いすぎて戻したこともある。これはこれで、幸せの一つの形なのでは。ガハハ。

 

人間らしいものに触れると、世界に彩りが加わります。それが奇々怪界なものであったとしても、人間らしいものには生命力があります。生命力。

生き方

今の場所で社員としてやろうかなという流れが来ているのだけど、どうやら人事の偉い人が「性根を入れ直さにゃおえん(原文ママ)」と思っているらしく、「ワシの下で働く以上は、世の中に出て恥ずかしくない人間になってもらう(原文ママ)」とのことらしい。誰が恥ずかしい人間じゃボケと思いつつ、どうやら嘘はつかない人で私を想って言ってくれているようで、鬱陶しいと思いつつ、もう少し話を聞いてみることにする。

 

よく思い返してみると、世捨て人(という意識で)として実家に帰ってきた。世の中と隔絶されてもいいと思って死なないために帰ってきた。

しばらく何もせず過ごして、遊ぶ金欲しさにイヤイヤ働き始めた。今の仕事に出会い、やりがいを感じている。けど軍隊に入隊した覚えはない。そう思っていたが、何故か根拠は無いが、長いものに巻かれてみるのも良いかもしれないと感じている。

 

生き方を変えられてしまうのではと怖がっているけど、人間は本当に根っこから自分を失うことができるだろうか。

 

変えてる自分(意識的)A

変えてない自分(意識的)B

変わっている自分(無意識)C

変わらない自分(無意識)D

 

A〜Dはつねにバランスを変えて1人の自分を構成している。A〜Dには最低限の値が定められており、ゼロになることはない。

 

変わらない自分Dを想うあまり、変えてない自分Bが増幅していって辛くなることってある。変わらずにいることは難しい。

難しいが不可能ではない。CDにあるものを意識下に置いたり、意識的にやってたことが無意識になる。時間と集中を重ねて。

 

心配しなくても変えることのできない部分Dを誰しも持ってるのに、意識できない領域Dを知らないうちに変えられてしまうと怖がっている。自分のことを正確に把握/支配できるという幻想を捨てて、今自分が信じたいことを信じて行けるといいなあ。

たぶん今、勇気がない。

源泉徴収票(追記)

をもらうために前の職場に電話するよ。ふう。

 

 

 

一番お世話になった人が電話取ってくれた。この人本当に電話取るの早くて、さっきもコール音無しでした。

 

開口一番に「元気?治った?」って。そう、本当にご迷惑をおかけしました。皆さんの話題になったのかな。社長と人事部長にしか病気のことは話してませんでしたが、どうやらご存知のようです。

 

話したかった人事総務のおばちゃんは本日お休みらしく、日を改めることに。

「本当にご迷惑をおかけして、すいませんでした」と。この人に言えてよかった。